名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その203 |
個人的経験: 前回、シュトライヒによる、 リートを味わっていたが、 この歌い手は、まず、 軽めの歌でデビューしたようだ。 彼女の録音の最初期のものは、 このCDで聴くことが出来る。 この1955年録音の7曲を含む、 全17曲であるが、 時代を感じさせる強烈な写真。 「ワルツとアリア」と題されている。 しかし、この歌たちは美しい。 クライスラーの古い自作自演を聴いた時のような、 不思議な懐かしさがこみ上げて来る。 最初の8曲は1958年のステレオ録音、 後半の9曲は1955年から6年のモノラル録音と、 半世紀以上の時が流れている。 グラモフォンの歴史的名盤を集めた、 「オリジナルズ」シリーズの常として、 最初に、これらの録音の往年の批評が、 紹介されているが、当時の受け止められ方が分かって、 大変、興味深い。 「リタ・シュトライヒは、 世界に2、3人いる、 最高のコロラトゥーラ・ソプラノの一人である。 彼女は、しかも、完全に、また、魅惑的に、 甘味な小唄を歌うことのできる才能に恵まれていた。 黄金時代を回想させ、 しかも、限られた存命の歌手だけが持つ、 声楽技術と発音の完全さによって、 シュトライヒ嬢は、 彼女の最高の状態では、 ガリ=クルチの芸術を思わせる、 芸術上の基準となる。 このCDのトラック9-11、 14-17に収められた、 彼女の最初の10インチLPは、 当然のことながら、 世界で最高の売上げを示したリサイタル盤であり、 このように沢山の人々を楽しませた声楽のレコードは、 私が知る限り、他に2、3を数えるだけである。」 このトラック9-11、14-17については、 これ以上、深追いされず、この時追加された、 新録音についての批評が続く。 「この愛すべき記録の中で、 細かい点で語るべき点は多々あれど、 マイヤベーアの『影の踊り』で、 フルートを伴うカデンツァにおける、 めくるめく火花、 サン=サーンスにおける、 最高の声のコントロール、 『子守歌』における、 うっとりするような声の引き延ばし、 また、超越的な、 ドヴォルザークの『月の祈り』などなどがある。 録音は、伴奏オーケストラの音響の、 深さ、心地よさも含めて特筆すべきものである。」 これは、このCDのTrack1~8が、 LPで最初に出た時の、 「ステレオ・レコード・ガイド」の批評だという。 なお、ここではすっ飛ばされたトラックについては、 日本でも「レコード芸術」が推薦盤としていて、 「ここに集められた歌曲は肩のこらない 楽しいものばかりだが、シュトライヒの美点が すべてに表れている」と賞賛されている。 先の批評に「芸術上のスタンダードとなりうる」 みたいな評価があったが、 面白い事に、同様の表現が、「レコ芸」でもされている。 「とくにアラビエフの『夜鶯』と ドリーブの『カディスの娘たち』は全く欠点のない 標本的な歌い方である。」 私は「標本的」という言葉を初めて聞いたが、 こんな風に続くと、頭が混乱してくる。 「少し清楚にすぎて芝居気がなさすぎるとも思われるほどに 清潔で狂いのない歌い方をしている。」 まるで血が通っていないような印象さえ、 ここからは受けてしまうが、そんな事はない。 いずれにせよ、優柔不断な鳩山政権のような、 結論の出ない批評が、妙に日本的であって奥ゆかしい。 このような状況ゆえか、日本ポリドールの、 洋楽部長が、証言「日本洋楽レコード史」(音楽之友社)で、 このあたりの声楽のレコードが全く売れなかった事に触れ、 こんな風に回想しているのが面白い。 「シュトライヒの人気が出たのは ステレオになってからだと思いますが、 美人で、ヨハン・シュトラウスといったレパートリーが ひろく受け入れられたのでしょう。」 なお、シュトラウスは、ここにも2曲収められているが、 最初のものはステレオ録音、曲は、「春の声」。 日本では、このレコードで、ポリドールもシュトライヒも、 春の声を聴いたわけだ。 何となく、活気あった当時を偲ばせる逸話で、 ついつい思いを馳せてしまった。 私自身の体験で言うと、 彼女の引退後に音楽を聴き始めたせいか、 シュトライヒがそんなにメジャーだと聴いた事はなく、 近年の復刻ブームの中で、ようやく名前を認識した次第。 ソプラノと言えば、アーメリンクやマティスを連想してしまう。 この世代が出ると、シュトライヒは、 しばらく忘却の淵に沈んでいたのだろうか。 さて、CDの解説に戻ると、 1984年に、Opera Internationalという雑誌? が載せた批評が、掲載されている。 1984年というのは、 CDが出る直前のタイミングに思えるが、 いったいいかなる機会に書かれたのだろうか。 「ありきたりの表現を避けようとしても、 リタ・シュトライヒの事を思うと、 こんな風に言わざるをえない。 『ナイチンゲールのように歌う歌手がいるとすれば、 それは彼女だ』と。 これは、歌の翼に乗って飛び交う、 クリスタルのようにクリアーで、 技巧的にも驚くべき声の持ち主のポートレートで、 彼女のレッスンを受けた者は、 絶対的な自然さで、最高の容易さで、 まったく無理のない親密さで歌うのである。」 後半は、教師としても優れていたことを示すものであろう。 さて、ここから、彼女の概略の経歴が語られる。 Peter Cosseという人が書いている。 「1987年3月20日、 ヴィーンで亡くなったソプラノ歌手、 リタ・シュトライヒは、 この世紀の偉大な歌手の中で、 最も愛された歌手の一人であった。 このコレクションでも十分に発揮される、 彼女の多才、彼女の音楽性、 世界中のオペラ・ハウス、コンサートホールで見せた、 彼女の朗らかで気取らない姿、教育者としての献身、 それにも増して、最も危険で急速な、 高音でのコロラトゥーラ楽句をこなす、 驚くべき技巧が、単なる歴史的資料を越えた魅力を、 その録音に与えている。 テクニックに優れ、精神的にも肉体的にもタフな、 しかし、ともすると薄味になりがちなリスクを負った、 オールマイティな声を持った歌手を養成するような、 声の訓練が横行する中にあって、 リタ・シュトライヒのようなキャリア、 レコード伝説があるということは有益なことである。」 このように、この解説者が、現代の歌手にない味わいが、 シュトライヒにはあったことを書いてくれているが、 まさしく、そんな事を考えていた私は嬉しかった。 「複雑なモーツァルト役への献身から、 いわゆるライト・ミュージックという やっかいな領域においてのユーモアを交えた表現まで、 有名なヴィリ・ドムグラフ-ファスベンダーの弟子が、 選んだ歌の基本をよく学び、 声楽と表現の細部まで核心を掴んで、 賞賛に値する成功を収めたかを、 容易に味わうことができる。 これらを、1950年代中期に、 ベルリンのイエス・キリスト教会で、 クルト・ゲーベル指揮のベルリン放送交響楽団、 RIAS交響楽団と録音した、歌劇、オペレッタ、 または、民謡からの歌によって聴くことが出来る。」 一文が長くて、読みにくい文章だが、 欧米人は平気なのだろうか。 「ヴィーンのシュトラウス帝国の、 メロディーの宝から声楽で装飾したものや、 ワルツ・ソングから始まって、 魅惑的な声楽の、感情を揺さぶる、 涙が結晶した、郷愁の、 芸術的なコロラトゥーラの輝きの歓びの、 広大な世界へと続く。」 言わんとすることは分かるが、 無理矢理感のある文章である。 「リタ・シュトライヒは、1920年、 ノヴォシビルスク近郊のバーナウルに、 ゴダール、マイヤベーア、アルディーティ、 または、ヨハン・シュトラウスの音楽と、 切り離せない世界で生まれた。 幸運なことに、ミューズのおかげで、 見えざる手に導かれ、 この勤勉な熱心な芸術家は、 容易に多くの問題を克服した。 ベルリンでドムグラフ-ファスベンダーのクラスに入り、 エレナ・ベルガーやマリア・イヴォーギュンの生徒として、 中欧音楽における様々な様式を洞察し、 センスと柔軟性を持った歌手として成長した。 このコレクションにあるような、 対称的な小品を歌う時、 彼女の語学の羨むべき才能も大きな助けとなった。 彼女の場合、ある言語や方言から、 別のものに切換えることは、見るからに容易であり、 まさに多言語に通じた歌の翼に乗った世界の住人であった。」 ちなみに、「世界の民謡と子守歌」というアルバムでは、 シュトライヒは日本語で「さくら」を歌っている。 これは、1962年の録音。 1959年に来日したようなので、その影響もあったのだろうか。 この時期、売れ始めたとあるので、 サービスもあるだろう。 この後、成功の軌跡が書かれているが、 それは前回読んだので省略。 「ここでは娯楽が偉大な芸術のレベルにまで、 引き上げられている」という一文で、 この解説は終わっている。 各曲の解説はない。 このシリーズ、海外盤ではこれ以上の事は分からない。 従って、アリャビエフやフロトー、ゴダールなら何とかなっても、 アルディーティ(1822-1903)やら、 デラックァ(1860-1930)などになるとお手上げとなる。 まず、58年のステレオ録音から8曲。 Track1:ヨハン・シュトラウス「春の声」。 中学生の頃はよく聴いた曲であるが、 この年になると、これをステレオで響かせるのは、 ちょっと恥ずかしい。 しかし、シュトライヒの無理なく舞い上がる、 嫌味のない歌を主体に聴くと、 日本がまだ元気だった活気ある時代を、 ただ、懐かしく思い描いてしまった。 Track2:サン=サーンス「うぐいすとばら」。 ハープの美しい序奏から、 弱音の弦楽が神秘的な雰囲気を漲らせ、 その中から、ウグイスの声のような、 高音のパッセージが散りばめられる。 遠くから美しくクラリネットがからんで来て、 何だか分からないうちに終わってしまう。 Track3:ヴェルディ「小さな煙突掃除婦」。 楽しい3分弱の小唄で、 時折、コロラトゥーラのパッセージがちりばめられる。 木管の伴奏も軽妙である。 弦楽のじゃじゃじゃがヴェルディらしい。 Track4:ゴダール「ジョスランの子守歌」。 木管の怪しい絡み合いが幻想的で、 その中から、懐かしいメロディーが歌い出されると、 思わず、古き良き時代、などという言葉が口から出てしまう。 マコーマックがクライスラーと入れていたような曲。 Track5:アルディーティ「パルラ・ワルツ」。 イタリアの歌劇指揮者アルディーティは、 後で出て来る「くちづけ」が有名であるが、 この曲もメリーゴーランドのような楽しさで、 洒落ていて、幸福感に包まれる、 ゴージャスなオーケストラ伴奏もよい。 Track6:スッペ「ボッカッチョ」より「恋はやさし」。 これは、古くから日本でも知られたもので、 昔を回想する場合に、引合いに出されるもの。 シュヴァルツコップが歌っているCDがある。 「あなたに愛して貰えるのなら あなたの誠はいりません。 愛は誠の花を咲かせるつぼみなのです。」 このように、教会で出会った男との、 結婚を予感した女性の歌だという。 5才年上のシュヴァルツコップが、 たぶん同じ頃に歌った録音を聴くと、 非常に格調高く、とり澄ました感じがするのに対し、 シュトライヒの歌は、何となく舌足らずで子供っぽく、 もっと素朴な愛情に満ちている。 とはいえ、シュトライヒの伴奏はハープが多用されながら、 肝心の教会の鐘の音は省略されているのはどうしたことか。 Track7:ドヴォルザーク「ルサルカ」より「月に寄せる歌」。 このライト・ミュージック路線で、 ドヴォルザークが登場するのは意外であるが、 この曲の神秘的な夜の雰囲気は、 大劇場というよりも、こんな、 もっと親密な環境で聴きたいとも思う。 シュトライヒの声がまた、憂いを秘めて大変愛おしい。 Track8:マイヤベーア「ディノーラ」より「影の歌」。 またまた、楽しい音楽となる。 軽妙で、マイヤベーアというと思い出される、 ものものしい先入観は不要である。 約8分の大作で、このCDでは一番長い。 マリア・カラスが歌う種類のもの。 以上がステレオ録音である。 以下はモノラル、「ワルツと民謡を歌う」と 題された1955年録音のアルバムから4曲。 Track9:ヨゼフ・シュトラウス「オーストリアの村つばめ」。 やはり、ステレオ期の録音に比べると、 鮮度に差異があるが、シュトライヒの声はよく伸び、 伴奏も美しくこの声を彩っている。 あるいは、この曲の歌唱がレコード・デビューだったのか、 何だか、彼女の胸の震えのようなもの、 この音楽の持つ躍動感がマッチして、 声のヴィブラート一つとっても、 妙に清新な印象を受けた。 Track10:アリャビエフ「ナイチンゲール」。 この歌手は、ガリ・クルチと比較されていたが、 ロシア歌曲の初期の名作として知られるこの作品は、 私は、ガリ・クルチのLP復刻で聴いて来た。 この復刻LPは、アニメ映画「蛍の墓」でも挿入され、 沢山売れたのではないだろうか。 憂愁を秘めた序奏から、ロシアの雰囲気いっぱいで、 シュトライヒは、心を込めて歌っていて、 後半のコロラトゥーラの見せ場では、 むしろ、感情を押し殺すようにして 効果を上げている。 Track11:ドリーブ「カディスの娘」。 フラメンコ風の楽しい序奏ながら、 歌い出されるのは、非常にシックな歌で、 さすがフランスの作曲家だと思わせる。 効果的にフラメンコが入るのも異国情調を盛り上げる。 この曲は音楽之友社の「名曲解説全集」にも出ていて、 「ドリーブの音楽の特色が遺憾なく発揮されている」 と、解説者の大宮真琴氏からも賞賛されている。 「笑い転げている娘たちの歌」とされ、 「芝の上で、みんなはカスタネットに合わせてボレロを踊った」 「カディスの娘たちはこういうことが好きなんです」と、 自分の美しさを誇りにする。 一幅の絵画になっている。 それにしても、シュトライヒは、 世界紀行が好きな歌手である。 以下2曲は、1956年のもの。 録音は55年とあって、56年に出た模様。 これと前後するものと同じ機会に録られたもののようだ。 何故、ばらばらにされていたか不明。 伴奏も全く同じ。 クラシック以外で出されたのだろうか。 Track12:チェニク「タランテラ」。 管弦楽の伴奏も楽しく凝っていて、 歌い口も勇ましく爽快である。 来た来た来たという感じで、 これまた、シュトライヒにぴったりの歌である。 1901年生まれの作曲家だそうであるが、 マンドリンだかの音がばらばらばらと鳴っている。 Track13:マルシェシ「La folletta」。 この人は1822年生まれというが、 聴いた事がない作曲家である。 いったい、どこで、シュトライヒは、 こんな曲を探して来たのか。 2分にも満たない歌であるが、 嫌味のない簡潔なコロラトゥーラが入る、 親しみやすい曲である。 またここから、「ワルツと民謡を歌う」というアルバムから4曲。 Track14:フロトー「夏の名残のバラ」。 ハープがぱらんぱらん鳴って、 この懐かしい唱歌を、 シュトライヒは心を込めて、 格調高く歌い上げている。 Track15:デラックァ「ヴィラネル」。 これも遠くに思いを寄せるような可憐な歌い方が、 この歌手特有の魅力を発散している。 中間部で、コロラトゥーラの技法が終わって、 再び、魅力的な旋律がこみ上げるようにして、 歌い出させる時の美しさ。 Track16:ヨハン・シュトラウス「ジーヴェリングで」。 シュトラウスにしては、穏やかな、 しかし、もの思いに耽るような歌。 Track17:アルディーティ「くちづけ」。 じゃんじゃか始まる序奏に続き、 木管、金管が華やかな彩りを添えながら、 これまた、幸福感に満ちた、 遊園地のような音楽が流れる。 ヨハン・シュトラウスのイタリア版で、 おきまりのようなコロラトゥーラの装飾が挟まれて、 幻灯のように光と影が織りなされる。 この曲も「名曲解説全集」に出ていて、 「おまえがそばにいてくれることは、 なんという楽しいことだろう。 涙も悲しみも忘れ、 いつまでもおまえのそばにいたい。」 という大意も出ている。 ということで、リタ・シュトライヒという 往年のソプラノ歌手の、 レコーディング活動の出発点を振り返った。 憂いを秘めた、やるせない情緒を歌わせると、 この人の魅力は全開となる。 以下、前回、文字数オーバーで、 掲載できなかった分を付録として追加する。 さて、シュトライヒが1961年に録音した、 LPのアルバム「ドイツ歌曲の夕べ」では、 シューマンの他にブラームスも歌われていたが、 そこでは収録されていた「秘密」作品71の3や、 「船上にて」作品97の2や、 「別れ」作品97の6、「娘は語る」作品107の3、 「娘の歌Ⅰ」作品95の6は省略され、 「RITA STREICH LIEDER」と題されたCDでは、 4曲のみが収録されている。 さらに、このLPには、 シュトラウスの歌曲は6曲あったようだが、 「あなたの歌が聞こえた時」など、 2曲が収録されていない。 「ブラームスもまた、 女声のための歌曲が少ない作曲家であった。 それらの多くは、 重要な『かいなきセレナード』や、『子守歌』 のように民謡の編曲であり、 また、『セレナーデ』や『少女の歌』のように、 民謡のスタイルである。」 このCDでも2枚目のシューベルト、シューマンに続いて、 ブラームスが取り上げられている。 CD2のTrack16は「セレナード」作品106の1。 シューベルトのような流麗なものではない。 クーグラーの詩で、3人の学生の軽妙な求愛の歌と、 それを耳にした娘が、恋人の事を思い出すという皮肉なもの。 CD2のTrack17は「娘の歌」作品107の5。 ハイゼの詩による、感傷的なもの。 糸つむぎの少女たちと若者たちの騒ぎの中で、 相手がいない娘が虚しく回すつむぎ車。 晩年のピアノ曲に繋がる、虚無的な響きが痛い。 CD2のTrack18は「甲斐なきセレナード」作品84の4。 民謡である。 当然のように入って来るようになった恋人を、 追い返す少女の歌でスパイシーである。 CD2のTrack19は、有名な「子守歌」作品49の4。 心置きなく美声を聴かせて、 シュトライヒも、居心地が良さそうである。 ピアノ伴奏も深い音を響かせている。 ここには、皮肉屋ブラームスのスパイスもない。 「フーゴー・ヴォルフは別問題である。 リタ・シュトライヒは、明らかに自らの選択により、 『ミニヨンの歌』などを、彼女の守備範囲を超えたものと考え、 ライニックなどの詩によるものや、 『秘めた愛』、『無愛想』など、 初期の歌曲に集中的に取り組んだ。 『子守歌』は珍品で、実際は、 1878年5月20日にヴィーンにて、 同様のタイトル『まどろみの歌』の題で、 ピアノ曲として書かれたものである。 1909年、音楽雑誌にて、『子守歌』として出版され、 1910年同じタイトルでショット社によって出された。 声楽曲としてのアレンジは、 エンガルバート・フンパーディンクによってなされ、 歌詞は妹のアーデルハイド・ヴェッテのものである。」 ヴォルフの歌曲は、CD1に4曲、問題の「子守歌」は、 モーツァルトとシューベルトが終わって2曲目、 Track18に入っている。57年のモノラルである。 CD1のTrack17「どうやって幸福を表わそう」。 ウェルバの繊細なピアノが、 完全に違った世界が始まったことを知らせる。 シュトライヒの歌も伸びやかで洒落ている。 CD1のTrack18「子守歌」。 「子守歌」は成立事情が混み合っているらしいが、 是非、歌曲にしたくなるような平易な曲想。 ヴォルフ的な皮肉な様相も皆無。 CD1のTrack19「若い少女」。 CD1のTrack20「おやすみ」。 いずれも、楽しく素直な歌、 あるいは素朴とも思える歌が歌われ、 シュトライヒも構えることなく、 このひとときを楽しんでいる。 また、ヴォルフは、CD2にも4曲、1960年4月のものがある。 アイヒェンドルフ、ゲーテ、メーリケという大家の詩によるもの。 CD2のTrack20「秘めた愛」。 切ない表現、ピアノのきらめきが涙を誘う。 CD2のTrack21「からかい」。 軽妙な羊飼いの娘の高ぶる心。 CD2のTrack22「改心」。 過ぎた愛の悲痛な表現。 CD2のTrack23「庭師」。 先の歌の緊張感を解放する明るく、 伸びやかな歌唱である。 「リヒャルト・シュトラウスの妻は、 バイエルンの将軍の娘で、 ソプラノ歌手のパウリーネ・デ・アーナであった。 従って、女声用の作品が歌曲に多いのは当然で、 1900年頃に書かれ、 オペラ作曲家として立つ以前のものである。 デーメルの詩による『子守歌』のように、 音色とリズムで魅了するもの、 風刺の精神による、侘びしい『いやな天気』や、 作品68からのブレンターノ歌曲など、 多くはショウピースである。 リタ・シュトライヒは、 元気のよい歌や単に効果狙いの曲に対し、 控えめなアプローチを取っているが、 『子守歌』では、控えめな歌ながら、 デリケートで悲劇的な繊細さで、 印象的な表情で歌っている。」 シュトラウス歌曲は、CD1にウェルバ伴奏のもの3曲がある。 CD1のTrack21、「星」作品69の1 伸びやかな、声の美しさを堪能させる音楽。 しゃれた転調や、アクセントのピアノのきらめき。 CD1のTrack22、「単調さ」作品69の3 彫琢を極めたピアノの綾の中に、 声が縦横に絡んでいく。 CD1のTrack23、「いやな天気」作品69の5 不機嫌で傍若無人な楽想が、次第に軽妙なものに変容していく。 また、CD2にヴァイゼンボルンの伴奏のもの4曲が、 分けられて入れられている。 CD2のTrack24、「心の鼓動」作品29の2。 シュトライヒの声も、広がる青い草原を越えて行く。 CD2のTrack25、「子守歌」作品41の1。 デーメルの詩による有名な歌曲である。 驚いた事に、少々、速めのテンポで、清潔な歌。 昔から、シュヴァルツコップなどで聴いて来たものとは、 かなり違う印象で、耽美的すぎず、 むしろ切実な印象を受ける。 こんな名曲がたっぷり収録され、 まことに有り難いアルバムである。 CD2のTrack26、「アモール」作品68の5。 これは、かなり高音を駆使するショウピースであるが、 ブレンターノの詩により、軽妙なものとなっている。 CD2のTrack27、「夜に寄せて」作品68の1。 このアルバム最後の1曲も、ブレンターノの詩による。 夜の安らぎを熱望して熱い。 シュトライヒの声にも火照りがある。 得られた事:「リタ・シュトライヒは、その出自ゆえか、遠くに思いを馳せる夢幻的な歌に威力を発揮する。」 |
by franz310
| 2009-12-05 23:53
| 歌曲
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