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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その192

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その192_b0083728_23564292.jpg個人的経験:
ピアノ三重奏団の演奏した、
シューベルトの「ます」で、
CD時代以降、最も、
日本で流通したのは、
ウィーン・ハイドン・トリオの
ものかもしれない。
ワーナーの、クラシック・ベスト100
という廉価盤シリーズに、
「死と乙女」との抱き合せで、
組み込まれたからである。


しかし、この再発売盤のCDは、
これらの曲の組み合わせもさることながら、
ウィーンの団体と、アメリカのフェルメール四重奏団の演奏を、
組み合わせたことにも、妙な違和感を残すものだった。

私は、むしろ、生々しい魚の写真をあしらった、
「ます」だけを収めた、オリジナルのLPや、
CDの方に魅力を感じる。

このピアノ三重奏団、
実は、私は、もっと高く評価すべきなのである。
私は、この団体をヴィーンで聴く機会があり、
彼らが、忘れがたい印象を残しているからである。

「ます」ではなかったが、シューベルトの作品であった。
ピアノは、ハインツ・メジモレツ、
ヴァイオリンはミヒャエル・シュニッツラー、
チェロはヴァルター・シュルツ。

このシュルツは、何と、アルバン・ベルク四重奏団の、
第2ヴァイオリンのゲルハルト・シュルツの兄弟らしい。

私は最近、それを知って驚倒した。
(78年から、第2ヴァイオリンはシュルツが受け持っている。)

というのは、私は、期日を接してザルツブルクで、
このアルバン・ベルク四重奏団をも、
偶然、聴いていたからである。
同じ家族の兄弟の演奏を堪能していたということだ。

余談になるが、さらに、シュルツ兄弟と言えば、
ベーム指揮の「フルートとハープのための協奏曲」で、
独奏を務めた、フルートのヴォルフガングがいる。

フルート、ヴァイオリン、チェロとは、
恐るべき音楽一家である。

このウィーン・ハイドン・トリオの名前にある、
ハイドンのCDを聞いたことはないが、
ハイドンの三重奏曲の研究、普及のために、
創設されたトリオとも聞く。

ちなみに、ウィーン・ベートーヴェン・トリオや、
ウィーン・シューベルト・トリオというのもある。
ザルツブルク・モーツァルト・トリオや、
ロンドン・モーツァルト・トリオはあったが、
ウィーン・モーツァルト・トリオもあるのだろうか。

さて、ハイドン・トリオであるが、
わたしが、ヴィーンで、このトリオを聴いて来た、
という話をしながら、その団体を知っているか、と尋ねた時、
大学の先輩は、もちろん知っている、
と言っていたから、確かに当時から名の知れた団体だったはずである。

1965年創設という話もある。
当時ですら、15年の歴史を誇っていたわけだ。

ただし、今はどうなっているのだろうか。
テルデックから出ていたこの団体、
イケメンのトリオ・フォントネにその座を奪われた形であろう。

ヴィーンに行って、たまたまその時取得できたチケットが、
偶然、この団体のコンサートだったというだけだが、
そうは言っても、忘れがたい一夜であった。

力演であったこと以外、思い出せないのは事実であるが、
このような体験を持つ私は、この「ます」の演奏を、
誰よりも、堪能しなければならない。

聴き比べにも力が入るというものだ。

とはいえ、その前に、
このウィーン・ハイドン・トリオの演奏を聴いて、
同様の体験をした人がいることに、
触れなければならない。

音楽評論家の大御所だった志鳥栄八郎氏である。
このことは、この演奏のCDをキング・レコードが出した時、
解説に書かれている。

私の体験や「ます」の録音時期を遡ること2年、
1979年の事であるらしい。

このような書き出しの「ひとこと」が、
CD解説に含まれているのである。

「1979年の夏にウィーンを訪れたとき、
わたしは、ある人につれられて、
ウィーン・ハイドン・トリオの連中の練習を
聴きにいったことがある。」

いきなり、「連中」というところがすごい。
「ウィーン・ハイドン・トリオの練習」ではいけないのか。

「彼らが、懸命になって、
ベートーヴェンの『太公トリオ』を練習していたのを
鮮明におぼえている。」

「大公」ではなく、「太公」と書くところも、
「太閤殿下」みたいで不思議な印象がある。

そして、さらに、彼らがカセット・テープをくれて、
「日本でもどしどしレコードを出して下さい」
と頼まれたとも書かれている。

氏は、「ウィーンではそうとう名の売れたトリオである」
などと書いているが、
ピアノ・トリオの中で最も有名な「大公」トリオを、
いまさらのように練習していたというのも、
何となくかっこ悪いし、
さらに、自分たちでカセットを渡して頼んだ、
というエピソードもちょっと冴えない。

「どしどし出して下さい」というのも、
妙に気さくな下町のおっさん風で、
ありがたみに欠ける。

連中と書きたくなったのはこのせいか、
あるいは、連中という先入観があったから、
こんな風に聞こえたのか。

実際は、もっと紳士的に、
「このテープを聴いていただければ、
私たちの仕事の価値がわかっていただけるはずです。」
といった口調だったかもしれない。

それから、志鳥氏は、
「そうした彼らの夢が、いま、
こうして実現しつつあるのはうれしいことだ」と書いているが、
自ら、助力したのか、たまたまそうなったのかは不明である。

ここから、志鳥氏お得意の、
「どこそこに行って、これこれを思い出した」
というエピソードが始まる。

ちなみに、氏は、ハイリゲンシュタッドの散歩や、
ケルンの大聖堂訪問、アルルの闘牛場見物、
テムズ下りなどの体験談で、
当時の少年の心に、異郷への憧れと共に、
羨望の念を植え付けることで高名であった。

「ます」については、
先のウィーン・ハイドン・トリオのエピソードに続いて、
このように書いている。

「シュタイヤーは小さな鉱山町で、
町の中心を清流が走っていた。
その夜、わたしは、この土地の名物の鱒のバタ焼きを食べた。
そのとき、ふっと思い出したのは、
シューベルトの『ピアノ五重奏曲』(鱒)であった。」

私は、このエピソードが大嫌いで、
清流を見たとたんに、
この曲を思い出さなかった志鳥氏の感性を疑った。

「そうである、シューベルトは、かつてこの町で、
この名曲を書いたのだった。」
とだめ押しする点も耐え難いが、
最後の締めくくりにこうあると、
ほとんど絶望的な諦念へと誘われてしまう。

「よくできた話のようではあるが、
これは本当の話である。」

私は自分の体験の意味の中に、
音楽の神秘を位置づけるのは好きであるが、
このように、音楽の価値を高めもせず、
単に、自慢話のようなのはどうかと思う。

実は、この解説を1980年代前半に書き、
志鳥氏は、同様のエピソードを、
「名曲ガイド101」という著書でも著述している。

「この川でとれるマスがおいしいと聞いていたので、
わたしはその夜、食事の時、特にマスの料理を注文した。
・・・日本なら当然塩焼にするところだが、
ヨーロッパでは煙の出る調理法は嫌われている。」
などと音楽を離れ、さらに口調は饒舌である。

おまけに、「味は残念ながらもうひとつであった。」
とも書いている。

そんな時に、この曲を思い出したというのだから、
ひどい話ではないだろうか。

さらに推薦CDとしては、
ブレンデル、ハーラ、レオンスカヤ盤が上げられていて、
ウィーン・ハイドン・トリオの名前はない。

レオンスカヤ盤はハイドン・トリオより後の録音ゆえ、
志鳥氏は、このハイドン・トリオ盤を、
はなから推薦する気はなかったものと思われる。

ブレンデル、ハーラについては、
かつて、ここで酷評した記憶があるので、
繰り返さないが、志鳥氏とわたしは、
何となく、感性の隔たりを感じずにはいられない。

かなりピアノ主導型の演奏がお好みなようだ。

しかし、脱線するが、この人は、
フルトヴェングラー、カラヤン、アンセルメ、ワルター、
ルービンシュタインといった演奏家が好きなようで、
いま一つ、どのような基準で話をしているのか、
混乱してしまうことも多々ある。

さて、このCDにおいて、
ウィーン・ハイドン・トリオと共演しているのは、
ヴィオラが、アタール・アラッド(またはアラード)、
クリーブランド四重奏団のメンバーで、ソロのディスクもあるようだ。
それから、コントラバスがルートヴィヒ・シュトライヒャーである。
この人は、有名な人だと思うが、
どんな録音を出していたか思い出せない。

さて、トリオ・フォントネのCDの表紙が、
生々しい魚の写真であったことは、
以前、ここでも触れたが、
同じテルデックのハイドン・トリオでも、
表紙写真は、生々しい魚体である。

しかし、背景の水色のグラデュエーションは、
魚体の動きを表わすブレ具合と相まって妙に美しい。
遠くから見ると、非常に鮮烈な印象がある。

文字の色調も好ましく、
ドイツ語だけで押し切っている点も爽快だ。

ただし、魚の口から音符が出ているのだけは、
意味不明を珍妙だ。

残念ながら、わたしが持っているキング・レコード盤では、
デザイナー名が書かれていない。

前半、志鳥栄八郎氏の解説の、「ひとこと」に、
いろいろ文句を書いたが、肝心の解説の方は、
5ページあまりを使って、そこそこ親切なものだ。
最後に、
「この曲の最大の特徴は何か・・・、
それは、シューベルトの若さを象徴するかのように、
全体に生気溌剌として、
しかも田園的な詩情にあふれていることであろう。」
と書いてあるのは同感である。

しかし、この後、志鳥節が炸裂し、
ベートーヴェンが、ハイリゲンシュタッドで
「田園交響曲」が生んだように、
「シューベルトは、風光明媚な北オーストリアの感動を
そのままこの曲に託したのであった。」
と結んでいる。

さて、実際に演奏を聴いてみよう。
わたしは、最初、この演奏を聴いた時、
序奏が短すぎるかと思ったが、
今回、聞き直してみて、そんなことはないように感じている。

ただし、かなり強烈な開始かもしれない。

やはり、聞き流していたのと、
じっくり聞くのでは差異があるようだ。

第1楽章冒頭から、前述のように溢れかえるような所があり、
演奏には、何とも言えない一途な魅力がある。
それでいて、余裕がないわけではなく、
ピアノもヴァイオリンも音色を終始美しく響かせており、
しかも、非常に、低音が豊かであるのが魅力である。

シュトライヒャーのコントラバスは、しっかり存在感があり、
多くの演奏での物足りなさは、
ここで何とか満足させることが出来る。

その分、ヴィオラとチェロの分離がもう少しあればと思うが、
第2楽章で、これらの楽器が歌う場面では、
それぞれの音色の特色を聞き分けることも出来る。

その第2楽章でも、演奏は真摯で、かつひたむきなものである。
幻想的、あるいは内向的な表情も良い。
ただし、先を急いで、少しテンポが速いような気もする。
その分、清潔な感じもあるが。

ここでのシューベルトは、初夏の早朝にまどろむことはなく、
何か、鋭敏に神経を高ぶらせて、
何か来るべきものを待っているようである。
私の原点にあるこの曲のイメージとは異なるが、
これはこれであり得る解釈であろう。

第3楽章もまた、切迫感に満ちたもので、
曲想ゆえか、多少、ヴァイオリンとピアノだけが、
主導権を持っているように思える。
私には、このトリオのチェロは、雄弁なような印象があったが、
ここでは、少し影が薄い。

有名な第4楽章でも、最初の弦楽だけの主題提示部からして、
ヴァイオリンだけが興奮しているように聞こえるのは、
いったいどうしたことであろうか。
録音のせいかもしれないが、
ヴィオラとチェロが引っ張られている感じである。

あるいは、こうした状況では組織活動ではあり得そうな話である。
一人、ばりばりやる気があるメンバーがいると、
それは基本的に良いことなので、
止めるわけにはいかなくなる。

さらに、自ら範を示そうとして、
あえて、冷静な態度で応じる場合がある。

じゃあ、勝手にやって貰おうと思ったり、
ひどい場合には、あえて暴走させて自己崩壊を待つ、
という関係にもなりうる。

もちろん、ここでは、
ヴィオラもチェロも、明快な出番があると、
きちんとその役割を果たしている。
しかし、ヴァイオリンのような興奮がなく、


終楽章は、苦み走った曲想もあったりするせいか、
特に、ヴァイオリンの興奮が聞かれるわけではなく、
むしろ、第1楽章の気迫も戻った感じで、
きりっとした感触で、古典的にまとまって美しい。

さすがに高名な団体だけあって、
どの部分でも音色が均一に美しく、
コントロールされたテンポと音量で、
次第に音楽を盛り上げていく様は見事である。

おそらく、実演では、これだけで感動してしまうだろう。

志鳥氏の解説では、
第1楽章では「喪朗」という初めて読む表現に、
目を見晴らされた。

第2楽章は「幻想的」と一般的な表現で、
第3楽章は、「シューベルトの若さが溢れている」とあって、
第4楽章は、「変奏曲の模範的な例」とあるが、
第5楽章では、遂に、伝家の宝刀が一閃する。

「この楽章を聴いていると、
北オーストリアの美景に陶酔している
青年シューベルトの姿がほうふつとしてくる。」

その直前に、「ハンガリー的」といった形容もあるので、
どうも、文章の前後関係が怪しいし、
いくらでも取って付けられるような安直さを感じてしまう。
第1楽章から第4楽章でも、同じ文言が使えると思うからだ。

なお、先の著書は、
「この曲を贈られたシュタイアーの人たちは、
きっと大喜びだったに違いない。」
と書いて、「ます」の解説を終えている。

これも、風景や地方から連想される勝手な妄想を、
さらりと書いて、結論にしてしまうという、
水戸黄門の印籠のようなものの代表例かもしれない。

私は、こうした妄想から研究が発展することが重要だと思うが、
そこから、本当にそうだったのか、
いっこうに調査が始まる気配がないところに、
歯がゆさを覚える。

特に、後者の「大喜び」は、何か証拠が欲しいものである。
「ハイリゲンシュタッドの人たちは、『田園』が書かれて、
大喜びしたに違いない」というのは無理だとしても、
作曲家がどこかの誰かに何か書けば、
常に同様の締めくくりが出来るではないか。

どうも海外のCD解説が、
最新の研究結果を反映しようとしているのに対し、
「おい、本当かよ」と、頼りない感じがしてしまう。

なお、CDではシュタイヤーとなり、
本ではシュタイアーとなるのも面白かった。
私も、この街の名前には混乱してばかりである。
シュタイルなどと書かれたりすると、
普通、同じ街とは思えないだろう。

このように混乱した側面もあったとしたら、
本当に、氏は、シュタイアーに連れられて行ってから、
ああ、これは「ます」が書かれた街ではないか、
と間が抜けたような気付きをしたのかもしれない。

いや、それでも、マスの料理が有名と言われて気づくであろう。

そこを、
「料理を口にしながら思い出したのは」などと書くから、
おかしな話になってしまうのである。

得られた事:「妄想と研究の関係の重要性と危険性。」
by franz310 | 2009-09-20 00:16 | シューベルト
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