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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その181

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その181_b0083728_0164072.jpg個人的経験:
少年シューベルトが、
クロンマーより、
コジェルフの方が、
ずっといい、
と言った話は、
彼の友人シュパウンによって
広く伝えられているが、
コジェルフよりも、
レコードに恵まれているのは、
クロンマーの方であろう。


このCDも、
美人クラリネットのシャロン・カムがアイドルのように、
意味ありげなポーズを取っている表紙写真で、
日本の愛好家にも記憶にあるものであろう。

背景にクラリネットが置いてあって、
ようやく、このCDの内容が憶測できる。

左半分を隠すと、何の写真か分からなくなる。
宮廷とか教会の中であろうか。
大理石の厳かな柱が立ち並ぶ中、
朝日だか夕日だかが差し込んで、
極めて日常から遊離した感のある、
なかなかの写真である。

Cover Photoには、Jannes Fraseとある。
カムの服装もモダンで大胆である。

ただし、解説中に出て来る、
演奏者の語らい風景の写真は、
この美しい表紙写真のせっかくのイメージを、
台無しにするものなので、乞うご期待。
こちらのフォトは、Carsten Wriedtとあり、
別のフォトグラファーが撮った模様。

Jannes Fraseは、こんなのを採用したプロデューサーだか、
デザイナーにがっかりしたのではないだろうか。

テルデック・レーベルのもので、1997年の録音。
イエルク・フェーバー指揮の、
ビュルテンブルクの室内管弦楽団の演奏。

このCDのように、クロンマーは、
どういう訳か、管楽器を使った音楽が得意だったようで、
数少ない管楽器協奏曲の分野で、
その道の名手には重宝されているようだ。

しかし、コジェルフにせよ、クロンマーにせよ、
一世を風靡した作曲であるようなのに、
何者であるかを知る資料は、あまりに数少ない。

例えば、白水社から出ている、
海老沢敏著の「モーツァルトの生涯」などは、
3巻の分量を持ちながら、人名索引に、
この二人の同時代者の名前はない。

コジェルフの師であったF・X・ドゥセックは、
かろうじて晩年のモーツァルトを援助したことで、
登場するには登場する。

ただし、彼の館がプラハの「モーツァルト記念館」として
残っていることくらいしか、記載されていない。

天才に張り合って音楽を書くくらいなら、
天才をもてなす方が、歴史に残るという教訓となる。

モーツァルトのライヴァル、サリエーリの本、
水谷彰良著「サリエーリ」では、
クロンマーだけは、一瞬、登場。
サリエーリの「声楽の弟子」の一覧に、
マリーア・マグダレーナ・フラム(1773頃~1839)
という人が出ていて、
「サリエーリに声楽を学び、作曲家フランツ・クロンマーと結婚」
とある。
クロンマー自身が、優れた作曲家であったのか、
ダメ作曲家であったのかはよく分からない。

コジェルフの名も登場するが、
ここで出て来るのは、シューベルトが肩を持った、
レオポルド・コジェルフではなく、
この人のいとこで師匠でもあった、
ヨハン・アントンである。
彼の、「戴冠式ミサ」を、1791年、
サリエーリは、プラハで指揮したのだという。

レオポルド・コジェルフが、
まさしくプラハにて、このヨハンに音楽を習った話は、
前回読んだところなので、妙に親近感がわく。

ちなみに、これは、
レオポルド二世のボヘミア王戴冠式の折のこと。
モーツァルトはこの際、戴冠式のためのオペラ、
「ティート帝の慈悲」を作曲して、同様にプラハで初演している。

こうした正式大行事には、もっぱら、
宮廷楽長であるサリエーリがかり出され、
宮廷作曲家のモーツァルトは脇役に甘んじている。
「ティート帝の慈悲」の作曲が廻ってきたのも、
サリエーリが辞退したからであった。

私の好きな、シューベルト「友人たちの回想」には、
先のシュパウンの回想を補足する形で、
「フランツ・クロンマー(1760-1831)は
1818年に、レーオポルド・コジェルフ(1752-1818)
の後を継いで、宮廷作曲家となった」とあるくらいである。
ちなみに、この書き方にならえば、
「コジェルフは、モーツァルトの後を継いで宮廷作曲家となった」
「モーツァルトは、グルックの後を継いで宮廷作曲家となった」
という具合に、錚々たる系譜に連なるのであるが、
こうした事は無視されている。

シューベルト関係の大著、アインシュタイン著、
「シューベルト 音楽的肖像」には、
「コーツェルフ、モーツァルトの後任として
ヴィーン帝室=王室作曲家となった」
「クロムマー、ヴィーンの作曲家、
当時彼の作品は一般に愛好されていた」
と索引のところで解説されているが、
本文中には、こう書かれているだけである。

「クロムマーはコーツェルフの後継者として帝室楽団楽長となり、
シューベルトより数年長生きをした。
コーツェルフのどこがシューベルトの気に入り、
クロムマーのどこが気に入らなかったかが知れたら、
我々にとって有益なことであろう。」

これが、まさに、ここでやろうとしていることなのだが。

この本は1948年、ニューヨークで出版されているようなので、
とても、この二人の作曲家を調査することは出来なかったのだろう。
それから60年の歳月が過ぎ、我々はこうして、
CDで、二人の作曲家を聞き比べることが出来る。
まことにありがたいことである。

クロンマーの交響曲は、
一聴して、ちょっとよく分からない所があるので、
まず、比較的、有名な協奏曲から見ていきたい。

ここでは、超名作のモーツァルトの最高傑作と並置されている。
Chiristian Kuhntという人の解説は、
比較的、クロンマーをうまく描いている。
題名は、「ハプスブルクへの奉公か芸術家としての自由か、
ヴィーンにおけるクロンマーとモーツァルト」とある。

「モーツァルト同様、フランツ・クロンマーが、
35歳で死んでいたら、彼の名前の元に、
最も流布した作品群は世に出なかったであろう。
1759年チェコのカミネンスにて、
Frantisek Vincenc Kramarとして生まれたが、
ザルツブルクの神童とは違って、作曲家としては、
遅いスタートであった。
沢山の彼の音楽の大部分は、19世紀を過ぎる前後まで、
出版されていない。
今日の少なくとも限られた聴衆には知られている、
わずかな作品の一つである、
作品36の変ホ長調のクラリネット協奏曲にも、
これは当てはまる。
この作品は、モーツァルトの有名なK.622の協奏曲を書き、
貧困の末に亡くなった12年後に当たる、
1803年に最初に出版されている。」

と、いきなり、二人の作曲家を比べる書き方で、
天才は最初から神童でなければならないといった感じが、
妙に割り切れない。
天才とか神童という言葉で全てが解決するなら、
我々の日常の努力がまるで無駄になるし、
大器晩成という言葉も意味を失ってしまう。

「モーツァルトの名声の絶頂が、死後のものだったのに対し、
ヴィーン音楽産業で、成功を収めた方はと言えば、
少なくとも数々の正規雇用という点から言えば、
クロンマーの方であった。」
この表現も少し、見下し感がある。
正規雇用でいることの難しさが欠落している。
特に、この時代、それは痛感されることであろう。

「1785年に、ヴィーンで一年を過ごした後、
10年後に帝都に戻って来て、
1798年からは、イグナーツ・フックス公爵の宮廷楽長、
帝室劇場のバレエ音楽監督、
フランツ一世のKammerturhuter、
そして最後に、ハプスブルク宮廷の、最後の公式な、
室内楽監督、作曲家であった。」

ここで、「最後の」とあるのは、
ナポレオンによって、神聖ローマ帝国が、
解体されてしまったからである。

「それとは対照的に、モーツァルトは、
1781年、ザルツブルクから出て来た時より、
死んだ時の方が悲惨であった。
未来の雇い主に、
彼が要求した多額の報酬ゆえに、
定職には就けなかったが、
むしろ、彼は、フリーの芸術家として、
悪戦苦闘する方を選んだのである。
結果として、彼は、ヴィーンでの10年間、
どこの宮廷にも教会にも属さない、
最初の重要な作曲家となった。
しかし、早くから、将来のパトロンとなりうる、
裕福で権力を持つ人々との交際に慣れていた彼は、
どんな事に巻き込まれるかを知っていたに違いない。」

このあたり、意味があいまいであるが、
こうした人たちは飽きっぽく、
当てにならないということであろうか。
好評だった予約演奏会も、
最後は、誰も名を連ねなくなったのは、
有名な話だからである。

しかし、このようにいろいろな作曲家の活動を見ていくと、
モーツァルトだけが演奏会を開いていた訳ではなく、
ライヴァルの相応の働きをしていたはずで、
今回の不況と同様、世の中の動きだってあっただろう。

「ヴィーンはこの時点では、彼自身の言葉で言えば、
音楽家にとって、『世界最高の場所』であった。
彼の仕事は活発を極め、様々な貴族の家族だけでなく、
新興の中産階級の裕福な人たちが彼の顧客となった。
妻が突然、病気になったりしなければ、
すべてはうまく行ったかもしれない。
何も残らなくなるまで、彼女の治療に彼は多大な出費をして、
パトロンに物乞いの手紙を書くまでになった。」

かなりクロンマーと対比するためにはしょっているが、
前述のように、モーツァルトは、
ずっと定職がなかったわけではない。
1787年、グルックの後任として、
宮廷作曲家になっているからである。
31歳で、この地位に就くのは、遅いのだろうか。

コジェルフは、モーツァルトより年長ながら、
モーツァルトの死後にこの地位に就いているし、
モーツァルトより3歳しか若くないのに、
クロンマーも、この地位に就くために、
コジェルフ引退まで待たなければならなかった。

私としては、勝手に自由に生きて来たのが、
急に定職について、こうした高い地位に就くことに対しては、
まったくもって賛成することが出来ない。
官の仕事なのだから、別に芸術性の高い作品を作曲する必要はなく、
その時々の機会音楽をこなしてくれればいいのである。
かなり意地悪に言えば、芸術を極めたいなら、
どうぞ、自分でベンチャーを作って御勝手に、という感じ。

では、クロンマーはどうだったろうか。
「クロンマーの定職は、彼に所定の金銭的な安定を与えたが、
モーツァルトも、有名なベートーヴェンもクロンマーの作曲に、
一言も良い言葉を残しておらず、
『自己流』の『俗物』として、19世紀中に忘れられた、
この多産なチェコの作曲家については、
シューベルトも、同様であった。」

これではあんまりであるが、シューベルトの本にあるように、
クロンマーの作曲したものは、当時、相当人気があったのである。

「今日、クロンマーの作品については、
否定も非難も、ここまで過激な意見は聞かれず、
ただ、かろうじて認知される程度である。
クラリネット協奏曲変ホ長調作品36のような作品は、
それ以上の価値はあろう。
前の時代の影響を最初の楽章などは残しているものの、
19世紀への変わり目にあった、音楽のスタイルの変化を反映し、
明らかにその時代特有の楽節を含んでいる。
序奏と第一主題の提示部は、明確にモーツァルト風であるが、
第二主題への遷移は、
ギャラントスタイルの明快な名技性に傾斜するとはいえ、
初期ロマン派風である。」

確かに、急にドラマティックな短調に傾斜するあたり、
ウェーバーやシュポアあたりを思い出してしまう。
経過句の面白さは特筆すべきかもしれない。

あるいは、パガニーニ風と言うべきか、
伴奏がじゃんじゃんじゃんだけで、
独奏楽器のみが好き勝手に羽ばたいて行く。
このお粗末極まる伴奏はいかにも頂けない。
あるいは、シューベルトは、
こうした点に不満を持った可能性もあろう。

「第二楽章、アダージョは、ロマンスをモデルとし、
この楽章の中間部では、独奏楽器は、内的な静穏の中に、
素晴らしいオーラを放射して、
せわしく脈動する管弦楽伴奏の部分と対比される。」

オーケストラは、最初の方だけ、序奏のように、
ジャーンとなって、不気味な低音の動きが現れ、
そこに少しずつ、クラリネットがからんで来るが、
クラリネットが調子に乗って来ると、
伴奏は、ぶー、じゃじゃじゃじゃ、ぶーという感じ、
あるいは、じゃかじゃかじゃかじゃかという感じで、
まことに頼りない。
やはり、経過句的に、管楽器などが不安な和音を発して、
神秘的な感じを表現していく。
このあたりに、人気があったと思われる。

「ロンド・フィナーレは、生き生きとしており、
1811年のウェーバーの、二つのクラリネット協奏曲や、
小協奏曲を時折、予告する快活な音楽である。」

私は、ウェーバーの協奏曲をそれほど楽しんだことがなく、
すぐに合点はいかないが、いかにも、管楽器の応答の妙や、
なだらかに夢を見るメロディの流麗さ、
時として現れるリズムの強調、ティンパニによる推進力などは、
そのあたりの作風に近いという感じは分かる。

「モーツァルトの最後の協奏曲は、
彼が作曲した作曲した偉大な作品の最後のもので、
すべての木管や金管の協奏曲の規範となるそびえ立つ傑作である。」

この作品、私は様々な機会に感動を新たにして来たが、
クロンマーの後で聴くと、オーケストラの中から浮かび上がる、
ホルンの豊かな響きに、まず、魅了されてしまった。
しかも、独奏が始まってからも、
何と、精妙なオーケストレーションであろうか。
メロディの補足強調や、部分的スポットライト、
独奏の先立つお膳立て、色彩や推進力の付加など、
渾然一体となって、絡み合って進んで行く。

「彼はこれを友人のクラリネット奏者
アントン・シュタッドラーのために、
死のたった二ヶ月前に作曲した。
この作品は本来は、バセット・クラリネットという、
今は忘れられた、木管楽器の仲間を想定して書かれた。
K.622は、1700年頃まで開発されなかった、
まだ、新しい楽器であったクラリネットの本質を、
それまで書かれたどの作品よりも掴んでいる。
独奏楽器は、濫用されることなく、単に名技性に堕することもない。
それは、愛、美、楽しみ、そしておそらくは、
モーツァルトの忍び寄る運命の暗さも歌い尽くす。
ヴォルフガング・ヒルデスハイマーは、
アントン・シュタッドラーがモーツァルトに依頼する際、
『それが白鳥の歌となろうとも、もう一度歌って貰おうか』
と独り言を言ったのではないかと空想した。」

このように書かれると、クロンマーの作品は、
名技性に堕して、愛も美も歌っていないように読めるが、
何となく、否定できないような気がする。

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その181_b0083728_0171191.jpgこのように、
クロンマーの作品36は、
クラリネットの作品だったが、
作品37は、オーボエの作品である。
この作品もCDが出ていて、
これまた、モーツァルトと、
比較されるような形で、
並べられている。
ただし、こちらの解説は、
ここまで、あからさま、
あるいは類型化したものではない。


Robert Dearlingという人が書いているが、
こちらの解説の方が、妙なバイアスがかかっておらず、
クロンマーに対して、平等に接しているようだ。
「フランツ・ヴィンセンツ・クロンマーは、
恐らく、多くは、彼の同時代人の名声ゆえに、
後世の人からひどく無視されている。
彼は、オーストリア、フランス、
イタリア、ユーゴスラビアの大学に招聘される栄誉を受け、
その多くの作品は特筆すべき人気を誇った。
一つは失われたが、9曲の交響曲を書き、
同じく9つのヴァイオリン協奏曲、
その他多くの演奏会作品、膨大な室内楽作品を書いた。
弦楽四重奏だけでも80曲もあって、ハイドンを凌駕し、
いくつかは、ベートーヴェンに匹敵すると考えられた。」

知られざる作曲家の紹介であれば、
まさしく、このように、始められるべきであろう。
テルデック盤は、実に不公平であった。

が、結局、次のような一節が出て来て、
結局は、このハイペリオン盤も、同じ穴の狢となる。
「ベートーヴェン、もしくはモーツァルトのおかげで、
我々にとって、クロンマーは無名であり、
熟達の敵はまさしく、天才と言えよう。」

このCDは、ハイペリオンの1990年の録音で、
同じ英国の、シャンドス・レーベルで、
「モーツァルトの同時代者」のシリーズで活躍した、
ロンドン・モーツァルト・プレイヤーズの演奏。
ただし、指揮はバーメルトではなく、
ピアニストとしてもレコードを多く残している、
ハワード・シェリーが振っている。

ただし、この人が何故、こうした役を演じているかは、
このCDの解説にはない。
独奏は、サラ・フランシスである。

モーツァルトのK.314と、クロンマーの作品37の他、
同じくクロンマーのオーボエ協奏曲作品52が収められている。
この2曲は同じへ長調である。
3曲入って61分なのは、
モーツァルトが18分程度であるのに対し、
クロンマーも第一楽章こそ10分程度あるが、
第二、第三楽章が合わせて10分ほどの、
トータル20分の作品だからである。
ちなみに、クラリネット協奏曲変ホ長調作品36も、
同様の規模である。

規模も同様ながら、どの曲も同じような曲想で、
威勢のよい序奏を有する、雄大な曲想の第一楽章に、
劇的緊張感を秘めたロマンティックな第二楽章、
さらに快活な第三楽章が続く。

クラリネット協奏曲でも書いたが、独奏楽器が始まると、
管弦楽は、じゃかじゃか、でんでんでんでん、だけになるのも、
まったく同じである。

こんな事ばかり書くと、クロンマーが不利になるばかりだが、
モーツァルトの作品は、名手、シュタッドラーのために書かれたもの。
一緒くたに語っていいのだろうか。
これら、クロンマー作品は、誰のために書かれたのであろうか。

このCD、Claude-Joseph Vernet(1714-1789)の、
「イタリアの風景」という美しく、幻想的な絵画が使われている。
牧歌的で、ロマンティックであると書いてもよい。
山頂の古い城砦を前に、様々な人々の営みが見える。
何か、宗教的な意味合いでもあるのだろうか。

「ヘンデルの死の年、1759年に、
Kamenice u Trebiciで、Frantisek Vincenc Kramarとして生まれたが、
1795年、ヴィーンに出て以降は、
クロンマーはそのボヘミアの名前を捨て、
より知られる名前を使うようになる。
それより先に、彼はハンガリーで、
ヴァイオリニスト、オルガニストとして活躍したが、
多くのキャリアをヴィーンで積み、
1818年から死の年までは、ハプスブルクの最後の、
宮廷作曲家となる。」

この辺りは、先のCDにもあったが、
ヴィーンに出たのが、そもそも36歳。
1818年といえば、彼は59歳?
1831年に亡くなっているので、
13年間、老骨をむち打って、この地位で働き、
72歳になってしまった、という感じである。

モーツァルトもシューベルトも、
なかなか、こうした公式ポストにありつけず、
不遇だったように思われているが、
クロンマーのような根性を見せたれや、という感じ。
そもそも、これら超天才は、
クロンマーの半分以下を生きることで精一杯であった。

しかも、クロンマーはいい人だったみたいである。
「彼はフレンドリーな人物で、陰謀などを好まず、
閉じこもって仕事をするので満足して、
次第に高まる需要を満たすべく、ひたすら四重奏曲を書いた。」

こう書かれて、私は、はっとなった。
さすが、お抱え作曲家である。品質一定が何よりなのだ。
ユーザーが期待する製品を続々、一定品質で生み出すことこそ、
天才的な楽器奏者のために、至高の作品を生み出すよりも、
この人にとっては重要だったのかもしれない。

もし、モーツァルトのように、オーボエ協奏曲と、
クラリネット協奏曲が、まったく違う作品だったら、
ユーザーは、「こんなの、クロンマーじゃない」と、
怒ったかもしれない。

伴奏は申し訳程度だが、独奏楽器のメロディーは美しく、
弾く人は気持ち良いのではないだろうか。
是非、演奏者の意見を聞いてみたい。

残念ながら、この種の演奏者主役のCDの常として、
(おそらく、クロンマーはおまけであるがゆえに)、
シャロン・カムのCDなども、彼女の、
モーツァルトの協奏曲にかける意気込みは、
「私の年齢に、相応しいと思うようにモーツァルトを弾く」
などという一文によって、寄せられていたりするが、
クロンマーについては、何も書いてくれていない。

「34歳まで、彼の作品はまったく出版されていなかったが、
疑うべくもなく、大量の作品が出版されたが、
そこには、ベートーヴェンの作品に付いて行けなかった、
聴衆向け市場の初期作品も含まれていた。
クロンマーの作品番号は110に到るが、
そのうち50は、
オッフェンバックのアンドレが30年の間に出した。」
これは確かに、すごいことであろう。

「モーツァルトの作品は、
より洗練され、より適切と思われたが、
この路線をクロンマーは行って受け入れられた。
これらのオーボエ協奏曲の出版は、
1803年と1805年だが、
何時、作曲されたかの手がかりは少ない。」

1805年と言えば、シューベルトが8歳の頃。
こましゃくれた餓鬼に成長した11歳のシューベルトは、
クロンマーなんてダメ、と言うことになるから、
まさしく、シューベルトが知っていたクロンマーとは、
ここに聴くような作品を書く人だったに相違ない。

この時、クロンマーは、モーツァルトも、
シューベルトも未体験の46歳であった。

「モーツァルトの協奏曲は、
オーボエ、ホルン二本ずつの、
小オーケストラのための作品だったのに対し、
クロンマーの作品は、二曲とも、
フルートやバスーン、トランペット、
ティンパニを追加してある。」

これまた、顧客への心遣いか。
モーツァルトのピアノ協奏曲などは、
一曲ごとに編成が違うので、その変化の妙を賞賛されているが、
演奏する方に取っては迷惑至極。
クロンマーのように規格化して貰いたいという人もいるだろう。

さて、この解説、モーツァルトに関しても、いかにも興味深い。
しかし、今回の主役はクロンマーなので、詳細は割愛する。

このパウムガルトナーによって再発見された、
モーツァルトのオーボエ協奏曲、
ザルツブルクで書かれたはずなのに、
ヴィーンの紙が使われ、しかも、独奏パートは、
モーツァルト的ではない、などと断言されている。

そこで、この独奏者、サラ・フランシスは、
適宜、変更して吹いているという。

このように、このCDでも、
演奏者のモーツァルトにかける意気込みが明確だが、
クロンマーについては、不明確。
いい加減にせよ、演奏者。

クロンマー擁護の立場で言えば、どの作品も、
とても節がきれいな作品である、と断言してもよい。
名手の妙技なら、これも可。
実は、シュタッドラー(1753-1812)は、
こちらの方が好きだった、なんて言うオチはないだろうか。

得られた事:「クロンマーの協奏曲、極めて顧客便益に適い、美しいメロディーに満ちた名品。オレ様、ベートーヴェンが嫌だった当時の人用。一定品質で安心。」
by franz310 | 2009-07-05 00:21 | シューベルト
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