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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その170

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その170_b0083728_12582396.jpg個人的経験:
今回、私が聞いたCDは、
シューベルトの師匠で、
モーツァルトのライヴァルであった、
サリエーリの書いたピアノ協奏曲。
FUNT CETRAという、
ライブ録音を出しまくって、
ちょっと著作権、大丈夫?
という感じのレーベルのもの。
大丈夫?という感じは当たって、
今回のCDもイタリア語のみ。


ということで、曲の詳細は読めないでいる。
ただし、ライブではなさそうだし、
大家、チッコリーニがピアノを担当、
何と、バックもシモーネ指揮、
イ・ソリスティ・ベネティと、
有名どころを押さえている。
マイナーレーベルの仕事とは思えない。
録音もよい。

近年の傾向では、フォルテピアノなど
オリジナル楽器で弾かれる領域なので、
少々、時代を感じさせる。
1986年という年が書かれているが、
録音年か発売年か不明。

2曲あって、共に作曲されたのは、1773年。
この時代からも明らかなように、
モーツァルト以前、C・P・E バッハ以降、
という感じがする。
あくまでも、この演奏で聞いた感じだが。

最初にかなり大曲の変ロ長調が収録されている。

第一楽章のアレグロ・モデラートは、
12分もかかる大曲で、
弾むような楽しげな主題、
晴れやかな展開に、
途中には緊張感を孕んだ一瞬もあって、
聴き応えのある音楽。

第二楽章は静的なアダージョでこれについては後述する。
7分ほどかかる。

終楽章は、何とメヌエットで、
ハイドンのピアノ三重奏曲みたいな構成。
これら2曲は、女性の弟子のために書かれたというが、
非常に愛くるしい音楽で、7分半かかる。
途中、変奏曲みたいに小細工をするあたり、
微笑ましく思える。
コーダでは、緊迫感を増して締めくくるあたり、
ベートーヴェンが好きそうな乗りかもしれない。

次にこのCDにはハ長調の、19分程度の協奏曲が入っている。

第一楽章のアレグロは8分程度。
ピアノの指使いが、軽妙で、演奏していて楽しそうである。
ころころと玉を転がすようであったり、
不規則にリズムに変化を付けたり、
せかせかと先を急いでみたり、
チッコリーニで聞くせいか、非常に美しい。

そんな中、すっと弦楽で出るメロディや、
少しずつ陰影を変えていく色彩感は、
妙にシューベルト的ではっとさせられる。
そうだ、「ラザロ」で出て来るメロディに似ている。

第二楽章は物思いにふけるラルゲットで、
ピッチカートが迫る時を告げるかのようだ。
約6分。

第三楽章は何と、アンダンティーノとあって、
後の協奏曲形式からすると意表を突かれるが、
ラルゲットの後のせいか、急緩急の協奏曲に聞こえる。

かなりシンプルな楽想の中、
妙にためらいがちなピアノのパッセージが出て来て、
はっとさせられ、サリエーリが想定していたという、
女弟子の面影が偲ばれる。
途中、劇的に盛り上がる場所もあって、
飽きさせない工夫は随所にある。

決して凡庸な作曲家のものでも、
アイデアに乏しい人が単に流行に便乗したようなものでもなさそうだ。
5分程度で終わるので、先の曲よりはかなりコンパクトなイメージ。

ちなみに、モーツァルトもこれらの曲と同じ1773年に、
最初のピアノ協奏曲を作曲している。
また、デーモニッシュな小ト短調交響曲を書いている。
サリエーリが23歳、モーツァルト17歳である。

もう一人の大家、ハイドンは、すでに不惑の年を迎えていたが、
実際は、この時、まだ模索の時代にあって、
ロシア四重奏曲のような革新的な仕事は、
1780年代まで待たなければならない。

ところで、このCD、私は、イタリアのレーベルであるし、
イタリア人作曲家の作品ゆえ、
さらにイタリア人の名匠たちが演奏することもあって、
当然、この表紙の絵画もイタリア、
演奏団体からの連想からか、
ヴェネチアあたりの風景かと思っていた。

しかし、解説書の裏には、
La “Hofburg” a Viennaとある。
縁取りが青く、イタリアの空を連想させるのが、
誤解を生じさせる原因かもしれない。

この一文の結論としては、
実は、これと同じ事が、
サリエーリという人物にも当てはまるのだなあ、
ということに尽きるかもしれない。

実は、サリエーリに関しては、
2004年に日本でも評伝がでていて、
これが我が国における基本文献ということになろう。
この音楽家の生涯の他、作品や文献の一覧、
弟子の名簿からレコードまでが解説されている充実の一冊。

水谷彰良という日本ロッシーニ協会事務局長が書いた本で、
音楽之友社から出たものである。
私が持っているのは第二刷なので、順調に売れているのだろう。

この本には、このピアノ協奏曲について、
このように書いてある。
「ハ長調協奏曲のそれ(第二楽章)は
モーツァルトのピアノ協奏曲第二三番の第二楽章と雰囲気が似ている。
もちろん他人の空似であろうが、それはサリエーリの音楽的な
先見性といえるかもしれない。
オペラ・アリアも同様で、サリエーリの音楽はしばしば
『モーツァルトらしさ』が感じ取れる。
けれども作曲時期の前後関係からいえば、
それは『サリエーリらしさ』と呼ぶべきものであろう。」

確かに、ここに収められた二曲の協奏曲。
第二楽章が非常に詩的な空気を漲らせて素晴らしい。
ただし、第三楽章は、強引さがない分、
モーツァルトのような高揚感がないような気がする。

もう1曲の変ロ長調の第二楽章もまた、
アルカディアの風景の中のパントマイムのような、
不思議な詩情に満ちている。
強いてモーツァルトの例を上げるなら、
第13番K415の第二楽章が似ているだろうか。

この著書は、サリエーリを、私のように、
歴史現象的な興味本位で捉えるのではなく、
ちゃんとその音楽に愛情を持って接しているのが好ましく、
従来の文献に関しても、
客観的、批判的な目を持って接しているので信頼できる。

この本に書いてある事に付け加えることがあるとすれば、
読者の感想であろうが、それも、ネット上に溢れている。
従って、私は、自身の体験との対照を語り、
さらにサリエーリの音楽にも耳を澄ませ、
本とCDとのクロスオーバーの中に身を委ねつつ、
妄想を膨らませたことを報告する以外のことはない。

ただ、本そのものに一言あるとすれば、
作品がすっかり忘れられた作曲家の評伝が、
こうした形で世に現れること自体が異例としか言いようがない。
著者の情熱に脱帽するしかない。

そもそも、ハイドンのような大家であっても、
大宮真琴氏が、
「日本で研究されたハイドン伝は、おそらくこの小著が最初」
と誇らしげに宣言したのがほんの40年前のことであった。

サリエーリより作品が知られている、
同時代のイタリアの作曲家(チマローザやクレメンティ)
に関しても、
同時代に限らず、桁外れに作品が知られている、
パガニーニやレスピーギなどにも、
こうした日本語の評伝があっただろうか。

ということで、ベートーヴェンや、
シューベルト、リストの音楽や生涯に興味がある人は、
是非、この著作を手に取るべきであろう。
彼らの評伝を出している某出版社などより、
はるかに安い価格で入手できるのも喜ばしい。

さて、私がサリエーリについて持つ印象は、
モーツァルトのライヴァルというものではなくて、
シューベルトが、祝典カンタータ、
「サリエーリ氏の50年祝賀に寄せて」(D407)を書いている、
というあたりに遡る。

つまり、シューベルトの先生であって、
かつて、モーツァルトのライヴァルだったこともあり、
モーツァルト毒殺疑惑をかけられたこともある、
といったイメージ。

つまり、サリエーリは、そんな風評から、
超越した人物だと思っていた。

映画「アマデウス」も、作り話として楽しんだだけだった。

が、今回の水谷氏の著作を読んで、
このサリエーリのモーツァルト殺害疑惑問題が、
実は、深いところに端を発し、
さらにサリエーリの人生、そしてその音楽の評価にまで、
深刻な影響を及ぼしていたことを知った。

ただし、
この本の基本的考え方は、
「モーツァルト殺害疑惑→サリエーリの音楽は忘却された。」
であって、
サリエーリの音楽そのものの価値が高くなければ、
「サリエーリはモーツァルトのような音楽が書けなかった
→サリエーリの音楽は忘却された。」
というロジックも、それでもなお、あり得ることなのである。

この著書でも、サリエーリ自身、モーツァルトの音楽を、
幾度となく賛嘆しているようなので、
ひょっとしたら、サリエーリ自身が脱帽していた可能性もある。

今回のCDでは、作品が若書きであって、
どこまで、上記の内容が確認できるかは自信がないが、
とても詩情に満ちた作品だとは言えると思う。
こうした繊細な一面を、シューベルトが学んだ可能性も否定できない。

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その170_b0083728_12584723.jpg私が音楽を聴き始めた頃、
ちょうど、ドイツ・グラモフォンが、
フィッシャー=ディースカウを中心に、
シューベルト歌曲の
系統的紹介を始めていたが、
その「三重唱曲集」に、
その曲は収録されている。
この曲の歌詞は、何と、
シューベルト自身の作であって、
素朴で、べたなものであるが、
ちょっと気が利いている表現もある。


1816年の曲なので、シューベルトは19歳である。
わずか2分程度の曲で、男性三重唱が、
厳かな斉唱のあと、その後、一人が歌い、
それから三人が美しいハーモニーを聞かせる。
この部分、ピアノは繊細なさざなみを立てる。
ピアノと一緒に、斉唱が高まって終わる。

何と、このレコードでは、ディースカウの他、
シュライヤーが参加しているのがすごい。
あと一人のテノールはラウベンタールとある。
ピアノは大家ムーアである。
私にとって、まさしく、
この時代の夢のオーラを帯びたレコードである。

この曲では出番がないが、女性では、アーメリングが登場する。

解説には、
「アントーニオ・サリエーリはイタリアの作曲家であるが、
1766年に先生のガスマンに連れられてヴィーンに来て以来
この都に定住し、宮廷指揮者や宮廷劇場監督を務めると共に、
教育者としては、シューベルトの他
ベートーヴェンやリストを教えたこともある人である。
作曲家としては30曲以上ものオペラを書いたことで知られるが、
そのほとんどがイタリア語オペラで、
彼はドイツ語を声楽に適した言葉とは考えず、
シューベルトにもゲーテやシラーよりも
メスタージオに作曲するよう勧め、
もっぱらイタリアのアリア様式を教え込もうとしたようである。」

といった具合に、
シューベルトにしなくてもよいような、
無意味な教育を押しつけた感がある。

そんなこともあるからであろう、私もそう思っていた。
が、実際は、どうやら、この先生に就くことは、
シューベルトにとっては、非常に誇らしいことだったようだ。

よくこの曲の歌詞をよく見れば、偽りなくそう書いてある。
石井不二雄氏の訳によって見ていこう。

「実に親切な方、実にすばらしい方!
実に頭のいい方、実に偉大な方!」
という、4つの切り口からの賞賛がなされているのである。
まず、「親切な方」という意味では、
水谷氏の本から思い至る点を上げれば、
以下のことが書かれている。

まず、シューベルトは寄宿学校の生徒で、
外出禁止の身の上だったのに、
サリエーリのはからいで、
週に二回も無償の個人授業をしてもらっている。
サリエーリの家に、特権で通うシューベルトを、
友人たちが羨望と憧れの目で見ていたことは間違いなかろう。

さらに、この授業は1812年から数年にわたって続いたのである。
高校生くらいの若者が、
まじめに週に二回も塾通いする姿を想像してみた。

シューベルトが、「親切な方」、「すばらしい方」と書くのは、
当然のことだった。
そう考えないと続くわけがない。
シューベルトの方は、給料の入る
教員の仕事すらこんなには続かなかったのである。

さらに、シューベルトの就職に関しても、
サリエーリは繰り返し推薦状を書いているようだ。
アイスクリームまで食べさせてやったという逸話を、
「サリエーリ」で知ったが、私は、胸が熱くなるのを感じた。

ただし、電車の中で、食い散らかす、
現代の高校生を連想すると心が寒くなるが。

さらに、シューベルトは、最初のオペラを、
サリエーリに見せて助言を受けている。
シューベルトもまた、サリエーリのような、
オペラ作家になりたかったのである。

これは、1814年のことなので、シューベルトは17歳。
サリエーリは64歳のことである。

この本、「サリエーリ」から知った事だが、
サリエーリもまた、こうして
師ガスマンについて3年した頃、見よう見まねで、
オペラを書いて、これが好評を博したらしい。
19歳の時である。おそるべきハイティーンのエネルギーである。
サリエーリは、自ら大作を持って訪れたシューベルトに、
40年も昔を思い出したかもしれない。

それから、シューベルトのいう「頭のいい方」とは、
何か思い至る節があるだろうか。

モーツァルト毒殺という汚名を晴らすための方策や、
ドイツ語が上手に話せなかったという点を思い出すと、
むしろ、愚直な感じしかしない。

強いて思い出すと、
最初のフランス・オペラ「ダナオスの娘たち」を書く際、
グルックの新作を期待するパリの聴衆をなだめるために、
グルックに意見を求めながら慎重に作曲を進め、
無事にこの作品を成功に導いた点。

モーツァルトの作品を認め、ハイドンの作品を尊重し、
彼らの作品を普及させるに務めた点。

さらに、高校生のシューベルトではなく、
言うことを聞かないおっさんベートーヴェンを指導した点、
あほには出来ない相談であろう。
1800年から1802年、
約3年、ベートーヴェンは、30歳を越えて勉強したわけだが、
これまた無償だったという。

その際、ベートーヴェンの誤りをすぐに指摘したとあるから、
かなりの実務能力を有していたのであろう。
おそらく、若いシューベルトは、次々と指摘されるポイントに、
舌を巻いたはずである。

また、サリエーリは、総譜を見ながら、
同時にピアノに置換えて弾く才能に長けていたそうなので、
そういった意味でも、頭が良さそうである。

この逸話があって、ようやく、声楽中心のサリエーリが、
何故、ピアノ協奏曲などを作曲したのかの一端を垣間見た。

では、「実に偉大な方」だったかであるが、
ほとんど終身で宮廷楽長を務めた点はともかく、
フランスからは、「レジョン・ドヌール勲章」を受賞しており、
数々の人気オペラの作曲、指揮者としての活躍からしても、
ハイドン亡き後、
彼以上に活躍していた音楽家はいなかったかもしれない。

さて、シューベルトのサリエーリ賛は、下記のように続く。
「私が涙を流すことのある限り、
そして芸術で元気を取り戻す限り、
この二つのものを私に与えてくれた
先生にこの二つのものを捧げます。」

この一文は理解困難である。
サリエーリに教わるまで、
シューベルトが泣くことを知らなかったとは思えない。

実は、この詩は、続きがあって、先のレコードでは、
演奏を省略してあった模様。
解説にはこうある。

「1816年6月16日に
サリエーリがヴィーン在住50年目を記念して、
皇帝から市民名誉賞碑を贈られた晩、
彼の自宅に弟子たちが集まって
お祝いに自作を一曲ずつ演奏した時に、
シューベルトも加わってこの曲を捧げたのである。」

なるほど、あまり長い曲だと他の人に支障をきたすから、
こんな感じなのであろうか。

しかし、いったい、誰が他に集まったのだろう。
シューベルトの日記にも、
「弟子入りした順序に従って、
次から次へと演奏されていった」とあるが。

ちなみに、この著書には、
「作曲家・演奏家の弟子」という一項があって、
ベートーヴェンやシューベルトの他、
代理宮廷楽長ウムラウフ、
ミュンヘン楽長ヴィンター、
楽長の後任となるアイブラー、ヴァイグル、アスマイヤー、
モーツァルトの弟子ジェスマイヤー、
ベートーヴェンの弟子チェルニー、
ロンドンのキングズ劇場監督リヴェラーティ、
ベルリン劇場監督ブルム、
シューベルト、ブルックナーの師ゼヒター、
モーツァルトの息子フランツ・クサーヴァー、
有名なケルビー、モシュレス、リスト、
シューベルトの友人、ヒュッテンブレンナー、ライトハルティンガー、
ドレスデンの楽長ライシガー、
ダルムシュタット楽長シュレッサーらの名前、
30人以上が列挙されている。

声楽の弟子も、シューベルトに関係する、
フォーグルやミルダーなど30人以上が出て来る。

こんな錚々たるメンバーが集まったなら、
シューベルトごときの演奏は聴かずに、
無駄話をしていた人々もいたかもしれない。

これは、通常、我々が想像する
シューベルティアーデとは違う種類の、
ものすごく格式張ったものだった可能性が高い。

このような機会に書かれた作品であるから、
単刀直入な硬い言葉が並ぶのも仕方がない。

「原詩もシューベルトの自作で、
彼ははじめ、
無伴奏の男性四重唱曲、
ピアノ伴奏付きのテノール独唱曲、
それに無伴奏の三声カノンの
3部からなる曲(D407)を作曲したが、
なぜかその第1部を
ここで歌われている男声三重唱曲に作曲し直した。
従って第2部、第3部は続けて原型通り歌われるべきであろうが、
このレコードでは省略されている。」

ということで、ここでの「なぜか」は、
勝手に想像するに、サリエーリの記念には沢山の人が、
演奏者として参加したがるが、
実用的には三声のカノンには4人必要ないからであろう。

そして、この残りの部分の詩は、
この本「サリエーリ」によると、
「善意と知恵があなたから噴水のように迸る
あなたは優しい神の似姿!
地に降り立った天使のような、
あなたのご恩は忘れません。
私たちすべての偉大な父よ、
どうかいつまでもお元気で!」

完全に神格化された詩の後半は、ひょっとしたら、
あまりに大時代的なので、フィッシャー=ディースカウらは、
演奏を見合わせたのであろうか。
ディースカウの本には、
「サリエリにとってザルツブルク出身の腹立たしい敵対者として
邪魔でしかたがなかったあのモーツァルト」
などという記述があったりするから、
彼はサリエーリがこんなにも賛美される部分は、
歌いたくなかったという可能性もある。

とはいえ、この曲、シューベルト自身が詩を書いている点は貴重。
また、イタリア語歌曲を習ったサリエーリを讃えるのに、
ドイツ語が使われている点は不思議という印象も残る。

さて、改めてフィッシャー=ディースカウの本を
読み返してみると、
(「シューベルトの歌曲をたどって」原田茂生訳)
サリエーリの話は、かなり微妙な書かれ方がなされている。

「この二人(サリエーリとモーツァルト)の対立は
実際深いところに根ざしていて、彼らの間には
劇音楽の美学に関する根本的な意見の相違があったのである」
という風に、今回読んだ「サリエーリ」における、
両者の同盟意識とはかなり異なる見解であることが分かる。

おそらく、この「サリエーリ」という書物の最も鮮烈な主張は、
この点にあったとも考えられる。

なんと、モーツァルトの最後の年となる1791年、
サリエーリは、モーツァルトの作品を中心とする
演奏会(ブルク劇場での音楽家協会の慈善演奏会)を開催したばかりか、
レーオポルド二世のボヘミア王戴冠式のプラハでの式典では、
サリエーリは自作ではなく、
むしろモーツァルトの音楽を演奏しているというのである。
この時、モーツァルトは、戴冠祝賀オペラ「ティートの慈悲」を用意し、
酷評されたので、もっぱら被害者のような感じで語られているが、
そもそも、サリエーリもモーツァルトも、
得意とするイタリアオペラを
書かせてもらえなかった被害者だというのが
著者の主張である。

つまり、レーオポルド二世は、先帝ヨーゼフ二世の時代を否定すべく、
いきなりイタリア歌劇場の改革を挙行して(ということだろう)、
サリエーリも、モーツァルトの台本作者であったダ・ポンテも、
お払い箱にしたというのである。

この本では終始狭量のモーツァルトも、
最後には、オペラ「魔笛」での成功に気を良くして、
その上演にサリエーリを招待した話までが出て来る。
サリエーリもまた、このオペラを賛嘆したというのである。

このことに触れたモーツァルトの手紙こそが、
彼の手紙で現存するものの最後だというのだから驚く他ない。

フィッシャー=ディースカウの本にあるような、
二人の対立などは、モーツァルト最後の年には、
なかったということになる。

それから20年以上も経って、シューベルトの授業が開始された。
フィッシャー=ディースカウの本では、
シューベルトはサリエーリがグルックの作品を紹介するまで、
その授業を退屈に思っていたとか、
シューベルトの友人シュパウンのこのような手紙を紹介しつつ、
シューベルトが結局、
サリエーリに反感を感じていたような気配を漂わせている。
「サリエリは、彼の生徒が抗しがたくひきつけられていた
ドイツ・リートという作曲ジャンルをまったく認めようとしなかった。」

その後、この本は、
シューベルトは、劇場でオペラに触れて、
改めてグルックやケルビーニやモーツァルト、
さらにハイドンの作品に感化されるが、
この時、指揮を執っていたのは、
サリエーリ自身であった可能性が高いようだ。

フィッシャー=ディースカウの本には、
「ハイドンの音楽はシューベルトにまったく新しい視野をひらいた」
とあるが、サリエーリの年譜には、こうある。
「1812年[62歳]楽友協会設立に協力。
シューベルトの個人教育開始。
四旬節の音楽家協会慈善演奏会で
ハイドン〈十字架上のキリストの最後の7つの言葉〉、
待降節の慈善演奏会で〈天地創造〉を指揮。」

つまるところ、サリエーリは、
イタリア人ということを誇張され、
純粋なるドイツ音楽の系譜、
ハイドン、モーツァルト、シューベルトという流れの中で、
どうしても排除すべき対照とならざるを得なかったとも言える。

しかし、今回の評伝を読んで分かるのだが、
彼は、16歳でヴィーンに移住している。
ほとんど、その音楽はヴィーン仕込みであったと言えよう。
しかし、イタリアからロッシーニ旋風が巻き起こった時、
その才能に賛嘆し、いつも平等な反応をするサリエーリは、
ロッシーニを抱擁したという。

これによって、彼は、烙印を押されてしまったのである。

得られた事:「サリエーリのピアノ協奏曲は、繊細でヴィーン風。」
「フィッシャー=ディースカウなども、単にイタリア派として、サリエーリを断じ、軽んじていた可能性がある。」
by franz310 | 2009-04-19 13:00 | シューベルト
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