個人的経験:ヘンデルのオペラ「アルチーナ」の CDのデザインは、二人の女性が、 恋人のように寄り添うものが多い。 これは、魔女アルチーナと、 その恋人、騎士ルッジェーロを演じるのが、 どちらも女性であるからだが、 「ロミオとジュリエット」のように、 デザインされているのは違和感がある。 何故なら、最後、ルッジェーロは、 自らの意志で別れて行くからである。 この3枚組CDでも、 人気歌手のフレミングとグレアムが、 非常に印象的なポーズを取っている。 ここに聴くCDの付録解説にも、 この二人の偽恋人については、 (with a false, inconstant love)などという、 あけすけな表現で語られている。 「同じ歌手たちのために書かれた 『アリオダンテ』同様、『アルチーナ』でも、 主要な5人の人物が登場するが、 彼等は、立派なバスに監視されていて、 1つの感情の鎖で繋がっている。 オロンテはモルガーナを愛し、 彼女はリッカルドを愛しているが、 実は、これは、ルッジェーロに捨てられた恋人、 ブラダマンテであり、 この人はルッジェーロを真実の愛で愛しており、 ルッジェーロは偽りの束の間の愛で、 アルチーナを愛している。」 というように、ルッジェーロの愛情は、 もともと不純だった、みたいな言いぐさである。 これでは、魔女とは言え、アルチーナがかわいそうだ。 確かに、ヘンデルは、むしろアルチーナの 味方のような音楽を書いているのだが。 「男と名誉の物語である『アリオダンテ』は、 悪のポリネッソの破滅によってハッピーエンドに至るが、 女と魔法の物語である『アルチーナ』には悪役はおらず、 すべての魔法の呪文が解けて終わる。 この場合、勝利の実感はなく、 ヒロインが消える時、 彼女と共に、彼女の狂気も、 彼女の美も、彼女の愛も、 彼女の痛みも、彼女の謎も、すべて消える。」 こんな痛々しい物語ゆえ、 このCDのようなラブラブの表紙写真は、 ある種の痛みを持って見るのが正しい。 そう考えると、アルチーナのフレミングは、 きっぱりと真実を見つめているが、 グレアムのルッジェーロは、夢想の中に佇んでいる。 この二人のみならず、ものすごい配役である。 パリ・オペラのライブで、拍手入りである。 1999年6月の録音で、 ラジオ・フランスが行っているが、 エラートがCD化したものである。 第1幕の冒頭から、いきなり歌を披露する アルチーナの妹のモルガーナには、 ナタリー・デッセイが起用されている。 ラジオ・フランスなどが介入しなければ、 デッカのフレミング、ソニーのグレアム、 EMIのデッセイなどが一同に会することは、 困難だったかもしれない。 ちなみに新書館の「オペラ名歌手201」では、 グレアムの代表盤にこのCDが載せられている。 「特に『アルチーナ』は、 バロック・オペラの過剰な装飾をすべて排した R・カーセンの大胆な演出が功を奏し、 W・クリスティの精緻を究めた指揮のもと、 グレアムの男役としての魅力が いつになく鮮明な輪郭をもって 舞台に現出していた」と紹介されている。 このCDは、レザール・フロリサン結成20周年に、 ふさわしい名演とされてもいた。 冒頭、島に迷い込むブラダマンテは、 キャスリーン・クールマン、 一緒に現れるメリッソは、 ローラン・ナウリが担当。 解説にある写真で見る限り、 役柄にふさわしく、 細身ながら威厳のあるおっさんである。 クリスティー指揮のレザール・フロリサンの演奏は、 毎度のことながら、シルキーな軽やかさに満ち、 序曲からして、ヘンデルらしい骨太さよりも、 繊細で夢想的な雰囲気を醸し出している。 非常に上品な音楽である。 ヒロ・クロサキがリーダーを務めている。 また、合唱団が、別途用意されており、 時折、その豊かな響きを堪能できる。 また、前回、検討したバレエの音楽は、 ここでは、最後の最後、劇の余韻のような形で、 演奏されている。 では、解説を読み進めてみよう。 この解説は、登場人物ごとに、 初演時の歌手紹介を行い、 歌手と歌の関係が丁寧に語られている、 という特徴がある。 「『アルチーナ』をかなり書き進んでから、 ヘンデルは、知られざる詩人によって改作された、 題名のないリブレット (これはもともと、1728年にファリネッリの兄、 リッカルド・ブロスキが作曲したもの)にはない、 7番目のキャラクターを書き加えた。 これは、魔女によってライオンに変えられた、 父親を助けに来た少年、オベルトである。」 このCDでは、ファニータ・ラスカーロという ソプラノが歌っているが、 下記のように、少年の声を想定していたらしい。 「こうした奇妙なプロットへの、 追加の原因が考えられるとすれば、 オラトリオ『アタリア』でジョアスを歌って、 満場の喝采を浴びたばかりの、 まだ14歳の若いウィリアム・サベージを、 ヘンデルが発見したからに相違ない。 オベルトが表現する感情の幅は、 彼が示した可能性が、 『Chi m'insegna il caro padre?』の単純な嘆きから、 『Tra speme e timore』の勇敢さや、 『Barbara!』の怒りの噴出にまで至り、 これはステージ上の子どもの限界となる無邪気さを、 サベージが越えていたことを示唆する。」 このような、飛び入り参加は、 昨今の天才子役が、一度当たれば、 いろんな番組に登場するのに似ているので、 聴衆の方も楽しんだに相違ない。 単純な嘆きとされる 『Chi m'insegna il caro padre?』は、 CD1のTrack10. 「誰が、お父さんの居場所を教えてくれるの」で、 ラスカーロの声は、優しいお姉さんの感じ。 ネット画像検索で見ると、エキゾチックな美人である。 CDの解説書の写真からは分からなかったが。 『Tra speme e timore』は、 CD2のTrack14. 「鼓動は希望のため、恐れのため」で、 ラスカーロはそれなりに勇ましいが、 声が細いので、 父を捜す少年の胸の高ぶりというよりは、 少女のそれのようだ。 『Barbara!』は、CD3のTrack15. 「残酷な人だ」とアルチーナを罵るシーンであるが、 ちょっと優等生的で迫力はない。 ただし、すごい技巧が仕組んであるのを、 すいすいと進むのは爽快だ。 「アルチーナの『将軍』である、 オロンテは、元気の良い恋人で、 若いサベージより少し年上の、 ジョン・ビアードというテノールの声に、 ぴったりと合わされている。 やっかいな、『Semplicetto』や、 優しい『Un momento di contento』にも、 後に彼が、英国で最も有名なテノールとなる 片鱗が垣間見える。 ビアードの声を想定して、 ヘンデルは後にサムソンやベルシャザール、 イェフタの役柄を作曲した。」 この、少し性格の弱そうな役柄は、 ティモシー・ロビンソン やっかいな、『Semplicetto』とあるが、 これは、CD1のTrack16. 「君は若くて分かっていない。 女を信用するなんて」と、 恋敵のルッジェーロをからかう歌。 ロビンソンは、爽やかな美声で、 まあ、いいんじゃないの、という感じ。 あまり、意地悪ないやらしさが出ていない。 優しい『Un momento di contento』 は、CD3のTrack5. 「一時の幸福は、本当に恋する人の 涙をも喜びに変える」と歌われ、 モルガーナの悲しみに同情する感じのもの。 ここでは、ロビンソンの優しい表現で良いのかもしれない。 典雅な伴奏が聴き所でもあろう。 「アルチーナの妹、モルガーナの役は、 1735年の時点で、もう一人の若い歌手、 ソプラノ、セシリア・ヤングに託された。 彼女は、2年後、作曲家のトーマス・アーンと結婚する。 彼女が、もはや彼の一座ではなかった時にも、 1740年代終わりまで、 ヘンデルの音楽の信頼すべき解釈者であり続けた。 バーニーによると、彼女は、 『美しい自然な声と素晴らしいトリル』に恵まれ、 『よく訓練されて、彼女の歌唱スタイルは、 同時代の英国の女性歌手を引き離していた』。」 なるほど、ここで、デッセイを起用しているのも、 肯ける程、初演時から期待されていた役柄であった。 「結果として、アルチーナは、いくつかの場面で、 そのパートナーのオロンテを、 輝かしさ(ヘンデルが1708年に書いた カンタータを基にした、第1幕の花火のような声楽曲、 『Tornami a vagghegiar』は、彼の最も有名なアリアとなった。) と、メランコリーの表現(優しい、物憂げな装飾と、 オブリガードのチェロを持つ『Credete al mio dolore』) の両面で圧倒した。」 花火のような声楽曲と書かれた、 『Tornami a vagghegiar』は、 CD1のTrack22.で、 第1幕の終曲である。 単純で軽快な序奏は、まさか、そんな、 花火が上がるとは思えない展開であるが、 「早く来て、私を誘って」という情熱的なもので、 「私の真実の心は貴方を愛したくてたまらない」 みたいな内容で、軽快かつ敏捷なときめきが、 装飾を交えて歌われ、強烈なコロラトゥーラが聞こえる。 デッセイの歌は、澄んできれいであるが、 情念をかき立てるほどのものではない。 しかし、会場の大歓声はものすごいものがある。 オブリガードのチェロを持つ 『Credete al mio dolore』は、 CD3のTrack3. これは、「ああ、あなたの怖い目、だけど、愛しい目、 あなたの愛に恋い焦がれています、思いやりを下さい」 と歌われるもので、胸苦しくなるようなアリア。 確かにチェロの効果が絶妙であるが、 ぱらぱらと鳴っているテオルボだか、 ハープシコードの音も切ない。 デッセイの声は迫力はないが、 ひたむきさが胸を打つ。 最後のコロラトゥーラの飛翔も、 あまりの悲しさに涙を誘うものがある。 次は、見るからに一癖ありそうな、 ローラン・ナウリ演じる、メリッソは、 やはり、特異な役柄であることが強調されている。 「バーニーは、バスのグスタブ・ワルツのスタイルを、 粗野で面白くないと感じたが、 これは、メリッソには1つしかアリアがないからであろう。 しかし、何というアリアであろう。 シチリアーノの『Pensa a chi geme D'amor piagata』は、 ホ短調で、理論家で一時、ヘンデルの同僚であった、 ヨハン・マッテゾンによると、 これは、『非常に物思いに耽り、深く、嘆くような、 悲しく、癒しへの希望』を感じさせるもので、 この幅広いフレーズのラルゲット・アンダンテには、 明らかに、単に『粗野な』ものを越えたものがある。」 この貴重なシチリアーノのアリア、 『Pensa a chi geme D'amor piagata』は、 真ん中の幕の最初で、 CD2のTrack4にある。 ここは、メリッソが、ルッジェーロの指に、 魔法を克服する指輪をはめるシーンである。 解説によると、かつて、アンジェリカが持っていたもの、 という注釈がある。 なるほど、こう書かれると、 「オルランド・フリオーソ」が原作であることが、 少し分かる。 指輪の効果によって、みるみる魔法が解けて、 部屋は荒涼たる荒れ地になる。 いかにも、それらしい雰囲気の序奏がついていて、 「傷ついた彼女を思ってやれ」と、 ブラダマンテのことを考えるように威嚇する。 確かに粗野なものではなく、 きわめて、感情に迫るように歌われるべきものである。 威厳のあるナウリの歌は期待に違わぬものである。 「『アリオダンテ』で、 悪役ポリネッソを演じた ボローニャのコントラルト、 マリア・カテリーナ・ネグリは、 『アルチーナ』の『いい者』キャラ、 ブラダマンテを演じた。 ヘンデルは、性の反転という、 彼の嗜好をぞんぶんに活用している。 この拒絶された女性が、 オペラを通じて男性の兵士に扮しているのみならず、 トランペットと戦場の調である、 ニ長調の『E gelosia』や、 『Vorrei vendicarmi』の衝撃的な装飾は、 その婚約者で煮え切らないルッジェーロより、 ブラダマンテをいっそう男らしく見せている。」 クールマンの歌うブラダマンテ。 戦場風の『E gelosia』は、第1幕の中間部に当たり、 「それはジェラシー」よ、オロンテに、 「愛が強すぎるゆえ」と、モルガーナに歌いかけるもので、 CD1のTrack14.で聴くことが出来る。 ソプラノのよく通る声の中では、 すこしくすんだ色調のコントラルトであるゆえ、 いきなり声量に不足する感じもする。 衝撃的な装飾の『Vorrei vendicarmi』と書かれた、 「彼の不実な心に仕返ししたい」は、 CD2のTrack6.で聴ける。 クールマンの声は、どうも籠もった感じがして、 衝撃的な装飾に煌めきが少ないような気がする。 どうも、この時代のカストラートに張り合うような、 強烈な力感と声域の広さを夢想すると、 ちょっと、それほど衝撃的とも思えないのは困ったものだ。 さて、残るは、ヒロインとヒーローであるが、 この解説にあるように、同性として、 まことに恥ずかしくなるヒーローが、 このルッジェーロである。 人気のメゾ・ソプラノ、 スーザン・グレアムが歌っている。 「ルッジェーロに関して言えば、 このオペラの中で、アクティブな役回りでも、 ブラダマンテとアルチーナの感情の争奪戦に 捉えられている犠牲者でもなく、 そのヒロイズムだけで共感を得ることも不可能だ。 これはたぶん、バーニーによる、 当時、ファリネッリを除いては随一のカストラート、 (実際、アリオダンテの主役を務め、 ファリネッリと同格になった) ジョヴァンニ・カレスティーニの予約で説明できよう。」 ということで、もともとは、 カストラート歌手のために書かれた役柄。 それなら、声が高いだけで性の倒錯はあまりない感じである。 「カレスティーニは、 生き生きとした創意豊かな イマジネーションの才能に恵まれ、 ヘンデルに、第2幕の輝かしい ホ長調のロンド、『Verdi Prati』を、 書き直すことを依頼した。 バーニーによると、作曲家は怒り狂って、 こう罵ったという。 『このとおりに歌わんとは、 あんたはわしがおぬし以上にわかっとらんと言うのか。 あんたがすっかりわしが書いたとおりに歌わんなら、 一銭も払わんからな。』 この逸話には、いささか当惑させられる。 確かに、ルッジェーロの役は、 特に、オベルトという人物の追加によって、 第1幕の壮麗な、『Bramo di trionfar』を奪われ、 『アリオダンテ』やアン王女結婚のための、 『パルナッソス山の婚礼』のような、 声の花火を楽しめるものではなかったが、 全オペラを通じて、ルッジェーロは、 沢山の喜びをもたらしていることは言うまでもなく、 ユーモア溢れる『Di te mi rido』や、 絶え間ないアクロバットを見せる『La boca vega』は、 簡単な役からほど遠く、 『Mi lusinga』は第2幕をこの幻影の島における、 決断も予期できない雰囲気で彩り、 粗野なホルンに勝ち誇ったアルペッジョによる、 『Sta nell'lrcana』は、バロックのベルカントの珠玉である。」 聴き所たくさんであるが、人気のカストラート歌手は、 これくらい働いて貰わないと困る感じか。 カレスティーニが書き直しを求めたとある、 第2幕のロンド、『Verdi Prati』は、その終わり近くで、 CD2のTrack20.で聴ける。 これは、このオペラの中では、 かなり詩情豊かなもので、 「緑の草原よ愛らしい木立よ、 お前たちもその美しさを失う」と歌われる。 超絶技巧を得意とする歌手には、 あまりに平易な表現でありすぎたのか。 先のオペラ「オルランド」でも、 草原から去って行くシーンがあったが、 ここも、その焼き直しみたいなもの。 これもまた、牧歌的な情緒に、 惜別の情が込み上げる美しい詩的な音楽であるのだが。 ユーモア溢れる『Di te mi rido』は、 第1幕のもので、CD1のTrack12. ブラダマンテに向かって、 「君のおろかさに腹が立つ」と歌うもの。 ユーモア溢れるというには、 ここでのグレアムの歌は優等生的で、 あまり腹立たしく思っている感じがしない。 絶え間ないアクロバットを見せるという、 『La boca vega』もまた、第1幕のもので、 さすが人気者で何度も出て来る。 CD1のTrack20.で、 「彼女の愛らしい口元と黒い瞳」とある。 愛らしく凝った前奏に続き、 ブラダマンテは男装した女性であることを 知らずに歌う小唄。 グレアムもまた、男役にしては、 ちょっと非力な感じがしなくもない。 魔法の島の雰囲気を彩っているという、『Mi lusinga』 第2幕の最初の方で、CD2のTrack8.で聴ける。 「私の優しい感情が私を呪文にかけ」と、 確かに無責任な無力感いっぱいである。 これまた、名手カレスティーニが歌ったら、 もっと桃源郷に誘うような、 超俗的な響きが現出したであろうもの。 グレアムの歌は、悪くはないが、 現実に舞台上で歌っている感じに収まっている。 バロック時代のベルカントの珠玉と激賞された 『Sta nell'lrcana』は第3幕、 CD3のTrack9.にある。 ブラダマンテに、「ヒルカニアの石のねぐらでは、 怒り狂ったメスの虎が潜んでいて、 逃げるかハンターを待つかを考えている」 と、解放的に勇敢に歌うもの。 オーケストラもまた技巧的で、 パッセージの交錯、ホルンの雄叫びと、 非常に多彩なものである。 グレアムは、このような背景に、 安定した技巧を効かせながら、 素晴らしい推進力で聴く者を黙らせる。 さて、最後にタイトルロールである。 さすがにヘンデルは、ここには、 忠臣を配備している。 「1729年、キングズシアターのために、 ヘンデルに採用されたソプラノの アンナ・ストラーダ・デル・ポーは、 ロンバルディア人であった。 1733年にポルポラと、 プリンス・オブ・ウェールズが、 彼の劇場と歌手たちを『サクソン人』から奪った後も、 ヘンデルに忠実だった、ただ一人の歌手であった。 その尊敬や見返りとして、 我々は、恐らく、彼女を、 『アルチーナ』のタイトル・ロール として考えるべきであろう。」 下記のように魔女役が当たり役というのも、 どうかと思うのだが、激しい感情移入が出来たのであろう。 「いかなる時も、彼女の持ち役であった。 ヘンデルの魔女は、 『リナルド』のアルミーダ、 『テーゼオ』のメデア、 『アマディージ』の素晴らしいメリッサさえ、 ヘンデルの魔女は、悲鳴と憎悪でスパイスされていた。 『アルチーナ』は、 第3幕のある一瞬を除いて、 怒りに負けることがないが、 この『Ma quando tornerai』ですら、 恐ろしさより哀れさを感じさせる。」 ということで、ここでは、ストラーダにとっても、 新境地開拓のための試金石となったわけだ。 ここまで、歌手の特性を理解しながら、 さらに、その隠れた可能性までを引き出すような活動を、 シューベルトのようなロマン派の作曲家はしていたかどうか。 「キルケの孫であるアルチーナは、 倦怠感のある魔女である。 彼女は、あまりの快楽だけ、 ということは不毛であると自覚し、 彼女が征服せざるをえない男たちに退屈し、 自らの呪文にくたびれ、 彼女は自分の島にうんざりしている。」 この設定も、私には少なくとも、 かなり時代を超越したものに感じる。 「彼女の登場のアリア『Di,cor mio』から、 我々は、この魔女は、もはや、 気まぐれな恋人をコントロールできないことを感じる。 『美女と野獣』の物語のように、 (しかしあべこべであるが) もし、ルッジェーロが真実の愛を宣言すれば、 彼女の杖は打ち砕かれ、 彼女の中の『女性』が『魔女』に対し、 勝利したであろう。 世界にあるすべての呪文は、 『Ah! mio cor』や、 『Ombre pallide』や、 『Mi restano le lagtime』 のようなアリアと、 比べられるレベルにあるだろうか。」 ヘンデルは、このかわいい協力者に、 これでもかこれでもかと花を持たせた感じであろうか。 登場のアリア『Di,cor mio』は、 CD1のTrack8.で、 「愛しい人よ、言ってあげて、 どんなに私があなたを愛しているかを」と歌われる。 このアリアは印象的なもので、 素晴らしく優雅な前奏に続いて、 優しげな歌が歌われるが、 前回見たDVDでは、 アルチーナはルッジェーロと、 抱き合いながら歌っていたものだ。 確かに、魔女が歌うには、 どこか儚げな気配があり、 諦念のようなものが満ちている。 フレミングは、格調高い歌を聴かせる。 『Ah! mio cor』は、 主人公が恋人を失うことを予感する このオペラの最大の聴かせどころで、 全曲の中心に要のように置かれた、 12分42秒の大作。 CD2のTrack16.においてフレミングの絶唱が聴ける。 感情の綾を、様々な音色で聴かせ、 深々とした低音も豊かに、 心のこもった、没入感のある表現。 中間部では、「私は魔女よ」と急速になるが、 ここでも、破綻なくアクロバットを制している。 動悸の高鳴るオーケストラの繊細さも、特筆に値する。 他にも、魔術的なレベルに達しているものとして上げられた、 『Ombre pallide』は、同じく第2幕を締めくくるもの。 CD2のTrack22.で聴ける。 これは、ト書きによると、 「魔法を執り行う地下の部屋で、 いろんな人影や道具が見える」というシーンで歌われる。 魑魅魍魎がうごめくような前奏からして、 非常に怪しい雰囲気が出ている。 ルッジェーロの裏切りを嘆くもので、 「私の声が聞こえないの、何故、何故」と、 歌われるもの。 オーケストラの切迫した雰囲気も相まって、 フレミングの歌には、情念のようなものも、 見え隠れしていて好ましい。 『Mi restano le lagtime』は、 第3幕CD3のTrack13.にある。 オロンテとアルチーナの会話の中で出て来る。 「涙だけが私には残っている。 魂の全てを賭けて祈ります。」 切ない感じは前奏からしてみなぎっていて、 8分を越える長さで、ひたすら、 ラメントが繰り広げられる。 フレミングのような表現力勝負の歌い手には、 こうした、部分で聴衆を惹き付け、 圧倒することが期待される。 このような聴き方をして、 今回、特に痛感させられたのは、 当時のオペラにおいては、歌手によって出番の数が決まり、 それに応じてアリアが作られるので、 それに応じてドラマの進行が影響を受けるということである。 こんな作り方は、少なくとも、 ベートーヴェンやシューベルトにはなさそうだ。 今回、独唱の部分を中心に聴いてしまったが、 第3幕の最後(CD3のTrack17.)の、 ルッジェーロ、アルチーナ、ブラダマンテの三重唱の美しさや、 CD3のTrack19.のコーロの精妙さなども、 特筆しておく必要があろう。 上品な音楽を奏でる指揮のクリスティーに倣って、 どろどろ感は犠牲になっているものの、 総じて格調が高い演奏となっている。 得られた事:「ヘンデルには、まず活躍させたい歌手がいて、彼等の美点を見せつけ、彼等の力量を最大限発揮させるような曲付けを最優先に行った。」 |
個人的経験:ヘンデルのオペラ、 「アルチーナ」を聴いている。 前回は、およそ2/3しか 聴くことが出来なかった。 今回は、残りを聴くが、 それは、無言劇のような、 管弦楽の組曲から始まる。 人の声を必要としない楽曲を、 多く含むオペラであることは、 このCDからも知られていた。 「ヘンデル:『アルチーナ』~バレエのための音楽」 と題されたもので、ガーディナーが、 イングリッシュ・バロック・ソロイスツと録音したもの。 表紙デザインは、古代ギリシア風の男女が踊るもので、 中世に題材を取った、アルチーナとは関係なさそうだ。 他に、「テレプシコラー」や、「忠実な羊飼い」といった、 ヘンデルのオペラから取られたバレエ音楽が、 それぞれ5トラック分、8トラック分入っている。 このデザインは、古代ギリシアに題材を求めた、 これらに由来するものかもしれない。 佐藤章氏の解説によると、 「テレプシコラー」は、「忠実な羊飼い」が、 1734年に再演された時に加えた、 「フランス風のオペラ・バレエの様式による序幕」 だということである。 テレプシコラーは、ゼウスの娘である、 9人のミューズの一人で「舞踊と合唱の女神」だという。 Track16から20の5曲は、 プレリュードとシャコンヌという、 比較的長い優美な楽曲に、 (これがフランス風序曲なのだという) 荘重なサラバンド、 軽快に跳躍するようなジーグ、 粗暴、豪快なエア、 バッロという短い曲集からなる。 このように、ちょっとした、「管弦楽組曲」である。 ただし、終曲は、主にフルートのための楽曲となっている。 また、Track21以下は、 解説によると、「フランス風序曲」に続けて演奏されたとある、 「忠実な羊飼い」から、「ア・テンポ・ディ・ブーレー」など、 計10分強の舞曲集が並んでいる。 これらも、もともと、1712年にヘンデルが書いて、 ロンドンで上演していたオペラを、 何と22年も経って1734年に再演した時に、 付け足したバレエ音楽だということだ。 Track23のミュゼットが、 2分40秒で長めであるが、 この曲は、不思議なドローン効果もあって、 エキゾチックな、あるいは神話的な雰囲気が目立つ。 他の曲は、1分に満たないものも多く、 完全に踊りの伴奏のような感じ。 このガーディナーのCD、 1984年3月に、ロンドンで録音されたものだが、 サウンド・エンジニアとして、 後に、OPUS111を設立する、 ヨランタ・スクラの名前が挙げられている。 RVC株式会社から出された日本盤は、 前述のように、佐藤章氏が解説を書いているが、 もっぱら、何故、これらの管弦楽舞曲集が書かれたか、 という歴史的背景の記述に傾注している。 タイトルも、「舞姫マリー・サレとヘンデル」とあり、 いかにフランス人がバレエ好きであるかや、 18世紀に、肉体の躍動を表現したバレエ改革が、 どのように起こったかなど、詳しく説明してくれている。 マリー・サレ(1707-56)は、 「徹底した衣装改革をすすめ、 1729年には仮面をつけずに踊って センセーションを捲き起こした」人と書かれている。 これまでの重い衣装の装飾的舞踏から、 踏み出した改革者なのである。 パリの生まれながら、 ヘンデルの作品には10歳の時から 出演していたとあり、 ここに収められた作品は、 すべて、彼女のために書かれた作品だとも、 書かれている。 このような資料的価値を求めた録音ゆえか、 あまり、オペラ「アルチーナ」の鑑賞に役立つものでもない。 やはり、情念をみなぎらせた、 人間の声の可能性追求があってこそ、 このオペラは輝くのだということが、 かえって痛感させられる。 このバレエ音楽の録音があった時代、 ヘンデルのオペラ全曲のレコードやCDなどを企画することは、 非常に困難だったに相違ない。 ヨランタ・スコラのような人は、 こんな状況を打破したくて、 自ら会社を立ち上げたのではないか、 などと考えてしまうCDである。 もちろん、Track1~3の充実した序曲に続いて、 12曲、約20分もの親しみやすい管弦楽曲が聴けるのは、 第2の「水上の音楽」が現れたような感じがしないでもないが、 やはり、「アルチーナ」と言えば、 「ああ、我が心よ」のような、 アリアの深い感情表現を期待したくなるではないか。 一応、Track4のト短調のバッロなど、 この調性から言っても、錯綜した感じからしても、 この悲劇の雰囲気を、かろうじて伝えてはいる。 しかし、Track5のメヌエットや、 Track6のガヴォットは、 一転して晴朗なもので、 「水上の音楽」を想起させ、 「アルチーナ」的では全くない。 以上は、第1幕からの舞曲だという。 Track7の第3幕冒頭のシンフォニアや、 Track8のアントレは、 DVDの上演でも演奏されて、 その劇的な雰囲気が、「アルチーナ」の世界を示すものだ。 Track9の太鼓連打付きの、 タンブランは、取ってつけた感じだが、 しかし、まあ、以上3曲はこれでまとまった感じはする。 解説によると、残りの6曲は、 本来、「アルチーナ」のための楽曲ではないという。 これでは、これらの組曲を持って、 「アルチーナ」を語れないのは当然であった。 Track10以下のの「夢のアントレ」シリーズは、 「アリオダンテ」のための舞曲集で、 「アルチーナ」第2幕の終わりの音楽として使われたとある。 「心地よい夢」、「不吉な夢」、「おびえた心地よい夢」、 そして、「不吉な夢と心地よい夢の争い」を表した、 これら4曲は、ハッカー指揮のDVDでも聴けたもの。 これらも、同じコンセプトで、なかなかまとまりが良い。 最後のTrack14、15の「モール人のアントレ」と、 「ロンド」は、完全に「アリオダンテ」の音楽で、 「アルチーナ」とは無関係だという。 一応、同様の楽曲として、続けて聴くのに不自然さはない。 録音もよく、ガーディナーの指揮も上品ではあるが、 やはり、突き抜ける声の饗宴がないという、 いじいじしたもどかしさが残るCDである。 さて、先に触れた4曲の「夢のアントレ」は、 ハッカー指揮のDVDにあったので、 ここから、再度、ARTHAUSのDVD鑑賞に移ろう。 Track46~Track50. 前述のように、これらの部分に歌はなく、 パントマイムのように訳者が静かに演技している。 ただし、本来のバレエではない。 優しい音楽と共に、 背景の額縁の中から、ルッジェーロと、 ブラダマンテのカップルが現れる。 Track47. アルチーナの絶望のような音楽が激しく続く。 何となく優柔不断なルッジェーロの指に、 ブラダマンテは指輪をはめる。 Track48. 音楽は急速になる。 すると、ブラダマンテは、花嫁の衣装になり、 無理矢理、メリッソに挙式させられてしまう感じ。 Track49. 典雅な舞曲になる。 記念写真のように、全登場人物が額縁に納まる。 Track50. 雄渾な楽想になるが、舞台上は何やらヤバい気配。 このあたり全部、パントマイム風の演出で、 メリッソに好き勝手されているうちに、 何と、ルッジェーロは、頭から血を流して死んでしまう。 音楽はめまぐるしく変化するもの。 「夜が更けると、夢の世界が、 ます、希望を、そして恐怖が、 主人公たちを捉える。 しかし、お仕舞いには、 ルッジェーロもまた、近づいて来る戦争の犠牲となる、 ということが明らかになる。」 第3幕. Track51. またまた、切迫した音楽。 モルガーナは、ブラダマンテ(リッカルド)が 残していった服を手にして嘆いている。 Track52. 「オロンテはモルガーナの愚かさを嘲り、 彼女は昔の関係の安全に逃げる。」 何と、モルガーナは、オロンテに詫びている。 Track53. ここで魅力的な音色を響かせる低音の弦楽器はガンバだろうか。 モルガーナが、「私に憐れみをかけて下さい」と歌う。 彼女は、ブラダマンテの残して行った服をくしゃくしゃにしている。 再び、オロンテに心が戻ったということであろうか。 いくら縛っても、はみ出してしまうのを、オロンテが手を添える。 なかなか憎い演出である。 Track54、55. オロンテの仲直りのレチタティーボとアリア。 安らぎと温かさに満ちた音楽。 Track56. 出て行こうとするルッジェーロとアルチーナが出くわす。 「他の女のところへ」とアルチーナが言うのに、 ルッジェーロは、「僕の婚約者だ」と叫ぶ。 アルチーナは、泣き崩れそうに、 「それなら私のことは忘れてしまえるのね」と答える。 魔女どころか、かわいい女である。 「栄光」や「名誉」をルッジェーロは口にする。 Track57. 「恩知らず」と罵る、 アルチーナの怒りのアリアであるが、 音楽は、軽妙な感じで、 ルッジェーロよりも、アルチーナの方に分がある事を、 ヘンデルは示唆しているように見える。 「一度愛したゆえに、憐憫が起こる」 「仲直りしない」という という切実な中間部を経て、 再度、最初の軽妙な音楽が始まる。 ルッジェーロも、頭を抱える始末である。 超絶の高音を放って、 アルチーナは思いの丈をぶつける。 Track58. 舞台上にホルン奏者が現れ、ホルンを高らかに鳴らす。 ルッジェーロのアリアは、 ルッジェーロが戦士に戻る様子を表したものであろうか。 歌いながら、ブーツを履いて、彼の心は決まったようである。 中間部、虎の親子の逸話が出て来るところに、 彼の心の揺らぎがある。 ものすごく長いアリアで、 アルチーナはその間、出たり入ったりして、 いろいろ考えているが、 6分半も歌い続けている。 「アルチーナとは違って、ルッジェーロは、 起こっていることにお構いなしである。 激怒し、恋情も覚めると、彼の自立性のなさに、 アルチーナは彼を去らせ、 それでお仕舞いにすることを保証する。 ルッジェーロは、もう戻ることは出来ないと気づき、 彼の唯一の道は戦場に行くことだと悟る。」 Track59. アルチーナのアリア。 ルッジェーロを失うと共に、 自らの半生を振り返る感じ。 悲しみを切々とたたえたもので、 「Mi restano le lagrime」とあるように、 嫋々たるラクリメという風情。 中間部は、少し、諦念があって、 雲の隙間から射す光のような感じで美しい。 これは、すごく芸術性の高いものだと感じた。 「絶望して、アルチーナは、その愛情から一歩置く」 と解説にある部分である。 この後、アルチーナの後ろを、 大きな男が歩いて通り過ぎるが、 これは、オベルト少年の父親である。 Track60. 「すべての悲しみが喜びに変わる」とか言って、 オベルト少年が入って来ると、 アルチーナは、またも裏切られるとか言って、 拳銃を少年に渡し、あの男(野獣)を撃てと命じる。 しかし、少年は、アルチーナの方に銃を向ける。 Track61. オベルト少年のアリアで、あれは、アルチーナに、 野獣に変えられた父の姿だと分かっている、と歌い上げる。 大男は、アルチーナを押さえつけるが、 少年は、アルチーナへの恩も感じたか、 銃を捨て、魔女に抱きついて、父親と出て行く。 「オベルトの父親は、アルチーナの宮殿に行く道を発見し、 息子の助けを受けて、彼女に依存させられた事に対し、 復讐を果たす。」 Track62. 追い打ちをかけるように、 ルッジェーロとブラダマンテのカップルが、 幸せそうに現れる。 「もう嘘を聴いては駄目よ」と言うが、 アルチーナは「嘘ではなく、同情で予言だ」という。 アルチーナは、ルッジェーロの死を確実視している。 Track63. 幸せそうにしているカップルに忠告するアルチーナを、 ブラダマンテとルッジェーロが二人してはねつける三重唱。 楽想は楽しげであるが、考えさせられる状況である。 中間部では、悲しい運命を暗示するかのように、 影が差すのだが。 ダカーポ形式で、再び繰り返される楽しげな楽想は、 かえって、人間の運命をあざ笑うかのように響く。 人間は、それでも頑なに思うがままに生きたがるものなのである。 「夢は現実となって行く。 ブラダマンテがルッジェーロの花嫁として現れると、 ルッジェーロの運命を警告し、 そして、彼の死を防ごうとする、 アルチーナの絶望的な試みも、 卑しい動機によるものとみなされる。 事実、アルチーナは悪意なしに、 カップルに言祝ぎ、無私の心配をするのだが、 それらは理解されない。」 Track64. ルッジェーロは、アルチーナを撃って、 気の毒な人を解放すると宣言する。 メリッソは、早くやれというが、 入って来たモルガーナが、やめてくれと嘆願する。 「不釣り合いな恋人たち、 アルチーナとルッジェーロ、 モルガーナとブラダマンテが、 お互いと会う最後の時。 メリッソが、ぐずぐずするルッジェーロをせき立てる」 とあらすじにある部分。 あらすじは、これで終わっている。 何と、まさかの展開で、 お構いなしに、メリッソが直接、手を下す。 「これが最後」とアルチーナは息絶える。 Track65. 野獣だったオベルト少年の父親も加わって、 「闇の恐怖から自由を救ってくれた」という、 歓喜の合唱が、全員の口からわき起こる。 しかし、これは、何という、後味の悪い歓喜の歌であろう。 何だかくすんだ色調で、まるで楽しげではない。 ヘンデルは、何という音楽を書いたことだろう。 Track66. 音楽は軽やかな舞曲となり、 みんながそこらのがらくたを拾い上げては、 品定めをしているうちに、 アルチーナは、彼等の後ろを悠然と歩き回り、 高みの見物をしている。 Track67. 急速な舞曲調の合唱。 「最後には愛が勝つ」という、 野卑なまでの音楽。 アルチーナは、覚めた目で、 彼等の愛の様子を見つめている。 それで、いきなり真っ暗になって終わり。 アルチーナの愛の方が、洗練された愛ではなかったか。 彼女の何がいけなかったのか、 よく分からないといったエンディングである。 このように、非常に悩ましい心理描写に 重きを置いたオペラではあるが、 前述のように、バレエ音楽が重要な位置を占めていたことは、 例えば、他の「アルチーナ」のCD解説にも書かれている。 たとえば、Ivan A.Alexandreという人が書いた解説には、 こんな事が書かれている。 なお、この解説が収められたCDについては、 次回、取り上げる予定である。 「『何故、ハリー、私はお前を敵と呼ばなければならん、 最も親しい、愛すべき敵よ?』 (シェークスピア『ヘンリー四世』第一部)。 英国の王様は、自分の息子、 プリンス・オブ・ウェールズに、 こう尋ねたが、まるで、これは永遠に続くかのようだ。 15世紀であろうと、18世紀であろうと、 (もっと最近でさえも)しばしば、 英国は伝統的に王位の強奪を繰り返し、 それが、君臨する君主に対する当惑にも敬意にもなった。 ジョージ二世とその長男フレデリックもまた、 例外ではなかった。」 このような皇室の争いが、何故、 「アルチーナ」と関係があるのだろう、 と考えてしまうところだが、 これが、非常にありありというのが面白い。 しかも、バレエに関する記述も、 非常に自然に登場するので、乞うご期待である。 「しかし、1730年代からは、 その権威を笑い飛ばすフォルスタッフはおらず、 以来、洗練された作法とイタリア・オペラの時代となり、 皇室の口論は、劇場にて演じられることとなった。 1732年、若いプリンス・オブ・ウェールズ、 フレデリックは、新しいオペラ団を支援して、 父親に反抗した。 ジョージ二世がパトロンをして、 ヘンデルが10年以上監督を務めていた、 キングス・シアターのオペラ団を 浸食することを意図して組織されたものだった。 『我々のオペラは沢山の不和の種を抱えています』 とヘンデルの友人、 メアリー・ペンダーブスは、 ジョナサン・スウィフトに書き送っている。 『男性も女性も、深く関係していて、 下院の中でも討論は冷ややかなものでした。』 新しいオペラ団は、貴族オペラと呼ばれ、 流行の先端を行くものや、最新のものを狙っていた。 そこでのスターは、 新イタリア派の二人の技巧家、 ナポリの作曲家ニコラ・ポルポラや、 若いカストラート、ファリネッリで、 彼等は、すぐにヨーロッパの ギャラント・スタイルを生み出した。」 ここでも、ファリネッリやポルポラである。 ヴィヴァルディが、ナポリ派の彼等にひどい目にあって、 ぞくぞくと対抗策を考えていたのを思い出す。 「バヤゼット」が演奏されたのが1735年、 まさしく同時期の話であることが分かる。 「バヤゼット」でどのような手を使ったかは、 かつて、このブログでも取り上げたことがあった。 「貴族オペラは、その創設時、1733年に、 小さなリンカーンズ・イン・フィールド劇場で 活動を始めた。 すぐさま翌シーズンでは、 ヘンデルから、オーケストラや、 多くの歌手たちを奪い取る形で、 キングズ・シアターに移ることに成功した。 ロンドン到着以来、 1711年の『リナルド』での勝利以来、 ヘンデルは、始めて、自分の劇場を失った。」 ということで、南ではヴィヴァルディが、 北ではヘンデルが、同時期に、この連中に、 苦渋を飲まされたことになる。 今では、ポルポラはほとんど演奏曲目に上がらないので、 完全に悪役みたいな感じになる。 ヴィヴァルディは、最終的に敗退した感じもあるが、 ヘンデルは良く留まり、逆に駆逐する形になる。 「しかし、彼が新しい劇場を見つけるには時を要さず、 ウェストミンスター教会の僧たちの 埋葬地の近くではあったが、 コヴェントガーデンであった。 1732年12月7日、 コンブレーヴェの劇でオープンした、 コヴェントガーデンは、 ロンドンにおける最新で最大の劇場であった。 その創設者でオーナーは、 その名前にふさわしくジョン・リッチと言った。 リッチは、まだ比較的若かったが、 彼の前の劇場において、1728年、 有名な『乞食オペラ』で一儲けしていた。 興行師の息子であり、義父でもあったリッチは、 生来の劇場の人であった。 彼は劇場を情熱的に愛し、 贅沢なスペクタクルを敬愛した。」 このように、ナポリ派との壮絶な緊張関係が、 ヘンデルが新しい境地を模索するきっかけになったのである。 アルチーナにバレエ音楽が多い理由はここにあった。 「従って、ヘンデルが、1734年11月、 この新しい建物に移ると、 豪華なセットや最新の機械、 (キングズ・シアターでは、 独唱者たちが演じなければならなかった) 小さな合唱団を用意し、 さらに有名なバレリーナ、マリー・サレたちの一団から、 最近、パリから到着したダンサーの一団を呼んだ。 ヘンデルは、『忠実な羊飼い』の再演と、 新作の『クレタのアリアンナ』に バレエをつけることからから始めた。」 ということで、冒頭のガーディナーの CD解説に書かれていたような所まで来た。 「すべて自作から取られた、 パスティッチョの『オレステ』が続き、 特にコヴェントガーデン用に作曲した、 最初の作品、『アリオダンテ』が最後に来た。」 このアリオダンテもまた、 「オルランド」関連のオペラだということだ。 「『アリオダンテ』最後の舞台と、 オラトリオシーズンまでの間、 おそらく、1735年の2月か3月に、 彼の13番目のイタリアオペラ、 『アルチーナ』の作曲が始まった。 1735年4月8日、スコアが完成、 1週間後、16日水曜日に、 『アルチーナ』はコヴェントガーデンで初演された。 12日には、マリー・ペンダーブスは、 嬉しそうに詳述している。 『昨日の朝、私と妹は、ドネラン夫人と、 ”アルチーナ”の最初のリハーサルを聴きに、 ヘンデルさんの家に行きました。 私は、それが、彼が書いたものの中で、 最高のものと思いましたが、 あまりにも何度もそう思ったので、 それをきっぱり”最高のもの”と言うより、 ”あまりにも素晴らしいので、それを言い表せない” と言うべきでしょう。』 それはともかくとして、 貴族オペラなどとの危険な競争が、 作曲家を、壮麗であると共に、 すぐに成功を収める作品の作曲に駆り立てたのである。」 ヘンデルの生涯を見ていると、 こうしたピンチをチャンスに変える点が多く、 音楽家でなくとも、学ぶべき点が多い。 「7月2日、ライヴァルの一座が、 シーズンを終わって一ヶ月も経って、 『アルチーナ』は、18回目の公演を行っていた。 当時としては特筆すべき公演数であった。 1736年から37年のシーズンにも、 さらに5回の演奏がなされたが同様に好評だった。 それから、新しい領域を開拓した作曲家が書いた、 全ての他のイタリアオペラ同様、 貴族とオペラ・セリアの世界は、 ブルジョワとオラトリオの世界に取って代わられた。 『アルチーナ』は、2世紀にわたる忘却に沈んだ。 舞台にかける費用はなく、 魔法にかけられた場所も、 魔法の庭も、不吉な洞窟も、 回転して人に変わる岩も、 変化するシーンは、セットや機械式のアクションや、 魔法の力と共に、 『リナルド』や『テッセオ』や『アマディジ』など、 最初のロンドンでの成功の、 想い出の中のだけものだった。」 このように、ファリネッリたちも、 英国でのイタリア・オペラ熱の消失と共に 消え去ることになるが、ヘンデルの場合、 「メサイア」などに代表される、 オラトリオの世界で、 再び脚光を浴びることになることは有名な話。 その前に、この「アルチーナ」の解説に 書いてあることを続けておこう。 「リブレットは、全ての騎士ロマンスの中でも 最も有名な、『オルランド・フリオーソ』をもととした、 最後のものとなったが、 これによって、傑作三部作が完成した。 キングズシアターのための『オルランド』(1733)に、 新しい劇場のための『アリオダンテ』が続いた。 一方で、タイトルのヒロイン名は、 『アマディージ』の英雄を愛し、 彼に征服された凶暴な魔女、 メリッサの子孫にも見え、 また、男らしい『アリオダンテ』 (これらは同じ歌手のために書かれた) の女性版とも見える。」 この後、この解説は、「アルチーナ」の 各配役について書かれた部分が続く。 ヴィヴァルディも「バヤゼット」において、 自身が集めた厳選された歌手たちを起用したが、 ヘンデルも同様に、このオペラでは、 多くの信用できる歌手たちを活用したようである。 さて、文字数も尽きた。 今回は、このあたりで終わりにする。 得られた事:「ヴィヴァルディは、ナポリ派オペラに対抗して、曲中に敵と同じものを取り込んで対抗したが、ヘンデルは、同様の状況で、フランスのバレエを取り入れて新機軸とした。」 |
個人的経験:ヴィヴァルディのオペラ 「オルランド・フリオーソ」を 基準とするならば、 ヘンデルが書いた、 魔女が出て来ないオペラ、 「オルランド」などは、 変わり種に思えてしまう。 さらに、ヘンデルの場合、 オルランド物語の 重要な脇役であるべき、 魔女アルチーナは、 オルランドの物語とは別に、 単独でオペラ「アルチーナ」 として作曲されている。 前回、ヘンデルのオペラ「オルランド」(1733)は、 ダカーポ・アリアといった伝統的な手法から離れて、 実験的な試みを盛り込みすぎて、 失敗したというような話を読んだばかり。 が、ヘンデルのオペラ「アルチーナ」(1735)の方は、 ダカーポ・アリアてんこ盛りみたいな解説を読んで、 のけ反りそうになってしまった。 「オルランド」より後の作品なのに、 退化しているようなイメージを持ってしまうではないか。 Robert Carsenといった人の書いた、 このオペラの解説を読むと、 こんな風に書かれていて、 いっそう混乱するのである。 「ディレクター的見地からすれば、 その生き生きとした心理的発展性ゆえに、 ヘンデルのオペラは、常にやりがいのあるものだ。 アリアの連続、アンサンブルの欠如といった、 構成から登場人物がどうなって行くかに焦点を当て、 効果を出すことが出来る。 A部に続き、短いB部が来て、再度A部が来る、 ダカーポ・アリアが、登場人物の心理を探索するのに、 高度に効果的で劇的な音楽形式かもしれないのは、 驚くべきことである。」 こんな風に、一本調子と思われたダカーポ・アリアが、 実は、全然、無味乾燥なものではない、 むしろ、「高度にドラマティック」などと書かれている。 そんな論調で始まっている。 「ヘンデルの『アルチーナ』には、25曲以上の、 ダカーポ・アリアがあるが、 ほとんどがダカーポ・アリアのオペラを聴くと、 登場人物を描くのにそれだけ時間をかけるという、 簡単な理由から、しばしば、理解がはかどる。 事実、『アルチーナ』の多くのアリアは、 5分以上を要し、それらの中でも、 『ああ、わが心』では、12分以上の時間を要する。 プッチーニの『ラ・ボエーム』2幕の最後ですら、 たかだか16分であることを思い出しても良いだろう。」 「オルランド」の解説者が、 ヘンデルは、そういった慣習的なものに反抗して偉かった、 みたいな語調だったのとは大違いである。 「いかなるヘンデル作品においても、 指揮者も歌手も音楽の中や、 その回りを飾る装飾の見せかけに騙されず、 感情のランドスケープを探索しなければならない。 行動を進めるレチタティーボに、 その行動に対する感情の反応を展開するアリアが続く という連続パターンは、コンスタントに、 持ちつ持たれつで進化していく。 『アルチーナ』においては、 ほとんどのヘンデルのオペラ同様、 愛が基本要素であって、 それが登場人物と絡み合っている。 (オロンテは、アルチーナが好きな リッカルド(ブラダマンテ)を愛する モルガーナを慕っている。) アクションがほとんどなく、 最初は戸惑うのだが、 登場人物の感情の要求を理解するに連れ、 どんどん、豊かに、満ち足りたものとなる。」 こんな感じで、ダカーポ・アリアの連続としての、 ヘンデルのオペラ「アルチーナ」を見ていこう。 ARTHAUSのDVDで、 表紙の色遣いがおどろおどろしく、 いかにも怪しい雰囲気たっぷりの写真が採用されているが、 この写真で顔を背けていては、中はとても 見ちゃおれんという代物。 ヨッシ・ヴィーラーと、セルジョ・モラビートという人が、 ステージ・ディレクターとして名を連ねている。 指揮はアラン・ハッカーで、 シュトゥットガルト州立管弦楽団の演奏。 1999年の公演記録である。 このDVD、解説部に署名がないが、 表紙裏に、先に、ステージ・ディレクターとして紹介した、 Sergio Morabitoという人が、あらすじを書いたとある。 舞台を受け持った人が書いているのだから、 ぴったりこの上演に沿った記述なのであろう。 かなり、野心的な演出ゆえ、原作と一致しているか気になるが、 これに沿ってDVDも見て、聴いていくことにする。 そもそも、3幕のオペラのはずが、解説では、 Part1、Part2の二部構成として書かれている。 Part1. 序曲と第1幕: Track1~3. 序曲からして、この豊饒な音楽は魅力的だ。 三部からなるもので、小さな交響曲。 録音もすっきりとして素晴らしい。 アラン・ハッカーという指揮者は、 もじゃもじゃ頭に眼鏡のシューベルト風。 指揮姿も、ちょこちょことして、 神経を通わせている感じが、 これまたシューベルトを想起させる。 序曲の途中から、黒ずくめの、 スーツ姿の怪しげな二人組が、 不気味に荒れ果てた部屋の中に入って来る。 電灯や蛍光灯などが大写しにされるように、 現代のボロい家の中に入って来た感じ。 Track4、5. 「見知らぬ二人は道に迷い、 二人のうち若い方に興味を持ったモルガーナが、 彼女の姉、アルチーナの宮廷近くに上陸したのだと説明する。」 道に迷ったのではなく、難破した模様。 日本語字幕付きなので助かる。 これは戦士さん、とか呼びかけているが、 先に書いたように、ビジネスマン風である。 一方は明らかに女性であるが、 二人して黒縁眼鏡もかけている。 モルガーナも、薄っぺらなワンピースを着て、 場末のパブにでも、いそうな出で立ちである。 いや、買い物中に主婦だろうか。 いきなり、じゃれ合いが始まって、 笑顔も話し方も惹き付けるわ、 と、モルガーナが歌い出す。 Track6. 「何人かが集まって来て、 二人の来訪者が、この『地上の楽園』を訪れた事を歓迎し、 二人は、メリッソとリッカルドだと自己紹介する。 アルチーナは丁重にもてなし、 恋人のルッジェーロに、 お互いの愛の深さを告げるように求める。」 何人かが増えて、 「ここは快楽の国」という合唱が歌われる中、 アルチーナとルッジェーロが抱き合いながら現れる。 Track7. このあたり、完全にラブシーンで、 舞台が気になって、音楽が良く分からない。 この恋人たちは、ねっとりと接吻しながら、 歌を歌っているのである。 ものすごい演出である。 アルチーナ役のキャサリン・ネーグルスタッドは、 1965年、アメリカ西海岸生まれのソプラノで、 DVDの表紙写真では、狂乱の風体だが、 ここでは、すらりとした美人である。 ルッジェーロは、 アリス・コーテという女性歌手が演じているが、 おもちゃにされるイケメン風を演じきって素晴らしい。 Track8. 「どんなに私が愛したか教えてあげなさい」 という、陶酔的なアリアを、 脱げたハイヒールを持ってアルチーナが歌う。 ルッジェーロは浮気者の本領発揮で、 誰にでもすりよりながら、その歌を聴いている。 やがて、見ちゃおれん、と言いたくなる、 寝転びながらの愛欲愛撫歌唱に移行するが、 この無理な体勢でも、ネーゲルスタッドは、 澄んだ声で、愛の喜びに満ちたアリアを歌い続けている。 Track9. アルチーナが行ってしまうと、 レチタティーボが始まる。 「まだ年端もいかぬオベルトが メリッソとリッカルドに、 彼の父親の行方を知らないか という希望を持って近づくが、 甲斐はない。」 Track10. オベルトのアリアである。 さっきどやどやと入って来た人たちの一人。 これまた、少年役だが、 クラウディア・マーンケという女性が演じている。 この人の歌唱も、破綻なくしっかりしたもので、 ヘンデルのオペラの豊饒感にマッチしている。 背景では、様々な愛欲模様が繰り広げられている。 Track11. 「二人がルッジェーロとだけになるや、 彼等は元戦友だと気づく。 リッカルドはすぐに、双子の妹のブラダマンテの 名誉を守ろうとするが、ルッジェーロは、 今や、アルチーナの虜である。 彼はかつて、リッカルドの妹と婚約していたのだが。 ルッジェーロにとって、過去との決別は、変更できないものだった。」 ルッジェーロは、ブラダマンテが変装しているのに、 リッカルドに似ているな、などと言っている。 Track12. 「モルガーナといちゃついたことによって、 リッカルドは、彼女のフィアンセである オロンテの嫉妬をかき立てる。」 ということで、さっきのどやどやの一人は、 このオロンテだったわけである。 「彼は、競争者と決闘しようとするが、 モルガーナは、彼等の間に入り、 オロンテとは別れたいという自身の意志をはっきりさせる。」 「あなたを守ります」とモルガーナが立ちふさがるが、 何とも、暴力的な恋人で、 オロンテは、いきなり彼女を殴る。 Track13. またまたゴージャスな音楽が始まり、 ブラダマンテが、「それは嫉妬というもの」という、 アリアを歌い始める。 いかにも、ダカーポ・アリアで、 前半、冷静だったブラダマンテは、 後半はいきなり服を脱ぎ出す狂乱ぶり。 それを、メリッソが止めている。 その間、この暴力で解決したがる、 先の二人は乱闘している。 Track14. どうやら、彼等は身分が違うようで、 モルガーナは、「身分をわきまえよ」とか、 「貞淑をわきまえるかは、欲望が決める」とか、 すごいフレーズで、オロンテを棄てようとしている。 Track15. オロンテは、同じように嫉妬している ルッジェーロを掴まえ、 いろいろと入れ知恵をしている。 「リッカルドの脅しを受け、これを最後にと対決しようと、 オロンテはルッジェーロに向かって、 アルチーナはすでにリッカルドと関係を持っていると告げ、 さらに、アルチーナの過去にも触れる。 彼は、棄てられた恋人のコレクションは、 彼女によって、野生の動物に変えられてしまうと言い、 同時にルッジェーロこそ、次の犠牲者であると暗示する。」 Track16. 音楽が活気付き、オロンテのアリア。 ロルフ・ロメイという歌手は、部屋中のものに、 八つ当たりしながら、情けない嫉妬のアリアを歌う。 ここでも、この恋の犠牲者は服を脱ぎだして、 長髪をかきむしり、パンツ姿で寝そべって赤面もの。 Track17. 何と、ブラダマンテ(リッカルド)は、男装のまま、 アルチーナと宮殿を散歩しながら、仲良くしている。 「リッカルドのあいまいな言動は、 オロンテのほのめかしを裏付けるように見える。 アルチーナはしかし、ルッジェーロの嫉妬の爆発に、 当惑させられる。」 アルチーナの服装は、ちら見せ系である。 Track18. アルチーナのアリア。ガンバの簡素な伴奏。 「私は変わらないのに、あなたの目に変わって見えるなら、 愛さなくなっても、私を憎まないでおくれ」とへんてこなもの。 ががーっと音楽が盛り上がり、 このへんてこな恋人たちの感情を高ぶらせる。 ものすごい効果だ。 ブラダマンテは、自分の婚約者と、 アルチーナがよりを戻そうとしている様子を、 一部始終見ている。 Track19. ルッジェーロは、ブラダマンテをライヴァル扱いし、 怒ったブラダマンテは、下記のような行動を取る。 「この時点で、リッカルドは、ルッジェーロに、 実は、彼は、双子の妹のブラダマンテであって、 離ればなれになったルッジェーロを探し、 連れ戻すために男に変装していると言って、 自分の正体を明かそうと考える。 メリッソは、そんなに早まった 正体明かしをしないよう忠告する。」 Track20. ルッジェーロのアリア。鮮やかな序奏。 ブラダマンテが男装しているのに、分からずに、 アルチーナが、裏切ったと騒ぎ立てる。 がらくたの中から銃を取りだし、 ブラダマンテに突きつける始末。 しかも、ネクタイとベルトを外して、 ぐるぐる巻きにしてしまう。 「ルッジェーロは、もはやアルチーナは、 信用できないと知って絶望し、 彼がライヴァルだと考えたリッカルドに向かって、 攻撃を加える。」 Track21. メリッソが、ブラダマンテの軽々しい言動を叱る。 すると、モルガーナが、恋人よ、と助けてくれる様子。 まことにややこしい。 ここで、彼等の関係をまとめると、下記のような感じ。 (ラブラブ) アルチーナ ←→ ルッジェーロ ↑(姉妹) ↑(婚約者) ↓ ↓ モルガーナ → ブラダマンテ扮するリッカルド (何となくラブラブ) Track22. モルガーナがブラダマンテ扮するリッカルドを思って、 初々しい思いを告げるアリアで、まことに華やかな音楽。 以上で第1幕は終わりである。 第2幕: Track23. アルチーナが、振り向いてくれないので、 悶々と悩むルッジェーロのアリア。 「彼は、アルチーナの元に飛び込み、 リッカルドを野獣に変えて欲しいと頼む。 モルガーナしか、今や、ブラダマンテを救うことは出来ない。 ブラダマンテは仕方なく、表向き、 男の愛情表現で、男性の人格を演ずる。」 というシーンはどこにあったのか。 Track24. メリッソとルッジェーロの言い争いの部分。 「ブラダマンテの仲間のメリッソは、 自分の目的を遂行するのに忙しい。 彼抜きでは、差し迫った戦争で、民を守れないゆえに、 ルッジェーロに対し、戦士に戻って欲しいと望んでいる。 それゆえ、彼は、弟子として叱責できるように、 ルッジェーロの師匠であるアトランテを装う。」 Track25. ルッジェーロのアリアの中で、 下記のような出来事が起こる。 「ルッジェーロは愛を棄てることが出来ず、 メリッソは、彼の指に、 内部の強さを断ち切る特別な力のある指輪をはめる。」 Track26. ここで、ルッジェーロは、ブラダマンテのところに戻る、 とか言い出している。 「それによって、メリッソは、 ブラダマンテが気にしている、 ルッジェーロの不安定な良心に、 揺さぶりをかけることが出来るようになる。 彼は、こうしたモラル上のプレッシャーが、 再度、彼を戦士に戻すであろうと期待している。」 Track27. このような状況下で、メリッソがバスで歌うアリア。 ミカエル・エベッケという歌手が、 マフィアのボスのような出で立ちで歌い。 ルッジェーロはがらくたの中から武器を探し出す。 ヘンデルの音楽は厳かに居丈高なもの。 Track28. ブラダマンテが来て、正体を明かすと、 ルッジェーロは、アルチーナの罠だと感じ、 ピストルを撃つ。 「メリッソは、ブラダマンテが、 アルチーナの王国に来ていることも、 どんな危険にさらされているかも言わなかったので、 ブラダマンテがルッジェーロの目の前に現れても、 もはや、どう考えるべきかも分からない。 彼は、彼女を、彼の愛を試すために 変装したアルチーナだと信じる。」 Track29. ブラダマンテのアリア。 混乱の極致の中で、彼の心は何とかならんものか、 みたいな内容である。 ルッジェーロがピストルを向ける中、 「いくらでも奪って行くがいい」と、 ブラダマンテはシャツをはだけて見せる。 これも、そうした中間部を持って、 冒頭のいらだたしい感じの音楽が戻って来る。 ヘレーネ・シュナイダーマンという歌手だが、 渾身の熱演である。アメリカ出身の歌手らしいが、 ずっとドイツで活躍している人だという。 Track30、31. ルッジェーロは混乱し、 すぐに、悩ましい心を歌い上げるアリアが続く。 「ルッジェーロは一人、自分が、 自身のアイデンティティも目的も失っていることに気づく。」 情感豊かなヘンデルらしい音楽。 ブラダマンテの幻影が、背景を流れて行く様子が切ない。 これは名場面かもしれない。 以上が、あらすじではPart1となっている。 Part2. Track32. アルチーナの恰好は、ますます、 色情狂的になっている。 裸足で、食べ物の皿を、倒れているブラダマンテに押しやる。 「ルッジェーロとの関係を修復するため、 アルチーナは最後に、 リッカルドを野獣に変えることに同意する。 しかし、今になって、ルッジェーロは、 こうした事を進んですることが、 十分、彼女の不貞の恐れを払いのけたと説明する。」 モルガーナが、リッカルドへの思いを白状し、 姉に、この人を助けて欲しいと言う。 アルチーナはリッカルド(実はブラダマンテ)に、 これ以上、何もしないと決める。」 Track33. 美しいヴァイオリンの助奏付きの、 モルガーナのアリア。 技巧性や情感の豊かさから、 これは、ほとんどヴィヴァルディ風ですらある。 アルチーナはブラダマンテにちょっかいを出している。 Track34. ルッジェーロが浮かない顔をしているので、 アルチーナは、悲しげに話しかける。 「メリッソの指示に続いて、ルッジェーロは、 アルチーナに狩りに行く許可を求める。」 Track35. 今度はリコーダ助奏付きのアリア。 ルッジェーロが、「崇拝する女性には貞節を誓う」と言いつつ、 「(しかし、それはあなたにではない)」と付け加える、 恐ろしい内容を歌うが、それにふさわしく、 不気味に黒々とした音楽である。 恐るべしヘンデル。愛の不条理を、ここまでえぐり出して。 素晴らしいリュートの弾奏を経て、 寝そべっているアルチーナにルッジェーロは跪いて抱き起こす。 ブラダマンテは、床に転がっていたホルンを持って、 一緒に狩りに行くということか。 「彼の情熱的な愛の宣言は、彼女の不安を十分に鎮めるが、 実際は、彼の本当の目的はブラダマンテであった。」 Track36、37. オベルトが反抗的な少年として登場。 「アルチーナは、オベルトから父親について尋ねられて戸惑う。 彼女は、彼がすぐに父親に再会できると約束して、 その場しのぎをする。」 そして、アリア。アルチーナは、 彼をなだめようといろいろやっている。 Track38. 「オロンテがやって来て、 ルッジェーロが出て行く準備をしていると言うと、 アルチーナはたちまち、 恋人の行動の背後にある嘘を見抜き、 裏切りに直面して崩れ落ちるに至る。」 オベルト少年を投げ倒し、狂乱して行く。 音楽は恐ろしい事が始まる前触れのように、 緊張感を高めて行く。 Track39. ネックレスを引きちぎり、 はだけた姿も痛々しいタイトル・ロールが、 体を張ったクライマックスである。 「お前は見捨てて行くのか」と、 感情を押し殺したようなアリアが、 情念の高ぶりを否応なく感じさせる。 これは10分にも及ぶ、長丁場で見せ場である。 これが、最初に書いた、大アリアの代名詞、 「ああ、わが心」である。 「私は女王ではないか」という激昂の中間部を経て、 ダカーポ・アリアの回帰部として、 前半の感情、壮絶な嘆きがより深まって行く。 Track40、41. もちろん、ブラダマンテも行ってしまったので、 オロンテは、それもモルガーナに伝える。 「一方で、リッカルドを信頼する モルガーナは揺るがない」と解説にあるが、 何と、ブラダマンテは正体を明かすようなアリアを歌う。 Track42. 「彼がルッジェーロと愛し合う場面を見て、 遂に、彼女も理解する。」 このようにあるように、下着姿で二人はいちゃつく。 「勇気ある乙女よ」などと、 ルッジェーロは調子が良い。 「裏切り者」と、モルガーナが絶叫するが、 おかまいなしに、音楽は優雅に流れて行く。 Track43. ルッジェーロの哀歌調のアリア。 「緑の牧場よ」と、ヘンデルの「オルランド」同様、 別れのアリアは、美しい自然描写がなされる。 「ルッジェーロとブラダマンテは、 騙された犠牲者たちに別れを告げる。」 ブラダマンテもピンクの衣装で、 すっかり女性の姿となって、二人して消えて行く。 モルガーナの打ちしおれた様子が耐え難い。 Track44. 「残酷なルッジェーロ」と絶叫するアルチーナ。 激しいリズムに乗っての中間部。 ほとんどシュプレヒシュティンメだ。 Track45. 序奏からして、すごく繊細な感じ。 傷つきやすくなったアルチーナの 精神状態を見事に表現している。 「欺かれたアルチーナ、残されたものは何だ」と言って、 動き出す音楽の焦燥感。腰も砕けて立てない様子。 妹のモルガーナに抱きついて歌うアリア。 「アルチーナは、絶望のあまり、 愛の力や魔法を作り出すことに失敗する。」 とあるように、「杖に魔法が宿らぬ」と言っている。 ものすごく切実な物語になって来た。 主人公なのに、魔女なのに、 絶望のあまり、魔法が使えないなんて、 いったい、どういう事なのであろうか。 それだけ、彼女の愛の深さを感じてしまう仕掛けになっている。 素晴らしい絶唱が聴ける。 まだまだ、音楽は続くが、 字数の限界が来てしまった。 続きは次回にする。 得られた事:「ダカーポ・アリアを否定した、実験的オペラ『オルランド』の2年後、ヘンデルは、さらにダカーポ・アリアを深化させ、この形式を駆使しつくしたオペラ『アルチーナ』を書いた。これらは、同じ題材から着想されたものである。」 |
個人的経験:ヘンデルのオペラ、 「オルランド」は、 ヴィヴァルディの同名作と 原作は同じながら、 魔法的要素が極めて少ない。 が、魔法オペラと 分類されるように、 ヘンデルの場合も、 超自然的な要素が、 そこここに散りばめられていた。 それは、前回見た、クリスティ指揮のDVDの、 ヘルツォークのような斬新な演出をしていない、 古くからある名盤、ホグウッド指揮のCDの 解説などを読んで分かったことである。 このCD、89年から90年の1年半がかりで、 当時、油が乗りきっていたホグウッドが、 カークビー、オージェ、ボウマンといった 名歌手を揃えて録音したもので、 そのせいか、妙に説得力が豊かな、 風格のある音楽となっている。 合奏協奏曲作品6などにも共通する、 華麗で充実した、しかも格調の高い音楽が、 終始鳴り響き、全く、オペラだと、 構えずとも、ゴージャスな音響に浸ることが出来る。 表紙絵画もまた、非常に参考になるもので、 女々しいまでに、左側の女性に入れ込んでいる、 騎士オルランドの無様な言い寄りの様子が図示されている。 イスラム風の男が、仲裁するようなポーズを取っていて、 左の男女が、オルランドから逃げ回る、 メドーロとアンジェリカだということが分かる。 子供までが指を指して嘲笑する 村人の前で恥ずかしい限りであるが、 狂乱のオルランドには、そんな事は、 まったく眼中にない。 恐るべきは恋わずらいであろう。 ヘンデルとほぼ同時代、1694年から1752年を生きた、 シャルル・アントワーヌ・コワペルという人が描いたもの。 劇的で大げさな姿態を描くので有名なフランス人らしい。 さて、CDの解説に戻ろう。 Anthony Hicksという人が書いたSynopsisを読むと、 謎のおっさん、ザラストロが、 いきなり、空を見上げていて、 占星術のようなことを行っている。 駆け足で、このあらすじを見ていくと、こんな感じ。 また、この人の書いた解説も面白いので、 ところどころ、そこで出ていた事を挿入してみよう。 いきなり、シューベルトの「白鳥の歌」の、 アトラスがちょい役で登場している。 (が、背景に過ぎず、それで終わりだが。) 第1幕: 「田舎の夜。山が見え、その上では、 アトラスがその肩に天を担っている。 ゾロアストロは、死すべき人間には分からない事を、 星座を見ながら読み取っている。 オルランドは、きっと、栄光への道に戻って来るはずだ。 オルランド自身がやって来るが、 愛と栄光への望みに引き裂かれている。 ゾロアストロは、愛への執着に小言を言って、 魔法の杖を振るい、 山の景観を、愛の宮殿に変える。 そこには、古代の英雄たちが、 キューピッドの足下で眠っている。」 こんな風に、クリスティのDVDでは、 単なる医者として扱われたゾロアストロは、 本来、魔法の杖を操って幻影を駆使する、 魔法使いであったことが分かる。 「彼は、オルランドに愛を放棄し、 戦いの神マルスに従うように促す。 オルランドは当初、その光景に恥じらうが、 愛の追求の後でも栄光は手に出来ると考える。 ヘラクレスは、オンファールとの情事があっても、 英雄として名を残したと言う。 また、ペーレイデースもそうだと言う。」 以上までが、CD1のTrack8までに入っている。 ゾロアストロは、デイヴィッド・トーマスが、 格好良い声を聴かせている。 「羊飼いの小屋がある小さな木立。 羊飼いの少女、ドリンダは、 自然の美しさを思い、 ある時は喜びが与えられるが、 今は嘆きに満ちている。 それは、おそらく、彼女が恋をしているから。」 と言う風に、情景が変わる。 この音楽も、爽やかな風が吹き渡る様を表して美しい。 ドリンダは、エンマ・カークビーが担当。 澄んだ美声を聴かせている。 この役柄が、確かに、このオペラでは、 最も表現力の幅を求められ、 大御所を持って来た事も納得である。 解説によると、この役柄は、ヘンデルは、 セレステ・ジスモンティという新進の歌手を想定したという。 この人は、ナポリで活躍していたセレステ・レッセと、 同じ人かもしれないという。 「オルランドが、救出したばかりの王女を連れて、 (これは、後でイザベッラだと分かる) 走って通り過ぎる。 彼もまた、恋に落ちているとドリンダは考える。 しかし、彼女は、自分が何を考えているのか分からない。」 Track12から。 「アンジェリカが現れ、 オルランドが彼女を好きなのは分かるが、 ドリンダが世話している時に、 彼女が傷を治してあげた、 メドーロと恋に落ちていることを認める。」 ベテランのアーリーン・オージェが アンジェリカを受け持ち、 これまた、透明感のある声を聴かせる。 ヘンデルは、この役柄を信頼すべき、 アンナ・ストラーダ・デル・ポーを想定して書いた。 Track15。 「メドーロがこの告白を聞きつけ、近寄り、 アンジェリカに自分も愛していると告げる。 彼は、彼女の前で価値がない人間だと感じるが、 彼女は、彼女の心を掴み、王様の価値があるという。」 写真で見る限り、キュートな、 キャサリン・ロビンが男性役を受け持っている。 Track16は、厳粛な古風な舞曲調である。 切々とした情感。 ヘンデルは、この役柄を、男性役に優れた、 フランチェスカ・ベルトリを想定した。 「アンジェリカが去ると、ドリンダが戻ってきて、 彼女が愛しているのはメドーロだということが明らかになる。 彼女を傷つけたくないメドーロは、 アンジェリカは親戚だということにして、 ドリンダに優しくする。 ドリンダは、彼が本当のことを 言っていないことを知っているが、 嘘であるにも関わらず、 彼の言葉は、彼女をうっとりさせる。」 Track18で、ゾロアストロ登場。 「ゾロアストロは、アンジェリカに、 彼女がメドーロを愛していることを知っているという。 そして、オルランドが復讐するかもしれないという。 オルランドが現れるが、アンジェリカは、 何が起こったかを言えず、 彼がイザベッラを助けたことを挙げ、 嫉妬したりなじったりして見せる。 ゾロアストロは、折悪しく登場したメドーロを、 噴水で隠すと、情景は明るい庭園に変わる。」 これまた、ものすごい魔法があったものである。 このあたりも、是非、実演でトライして欲しいものだ。 「アンジェリカは、オルランドに、 もう王女を見ないように約束させ、 彼女の心に疑惑ある限り、 アンジェリカの愛を得ることは出来ないという。 オルランドは従うことを誓い、 最も恐ろしい怪物を倒し、 その愛の強さを見せつけるという。」 Track19のアンジェリカのアリア、 「あなたが誠実であることを」は、 通奏低音の音色と調和し、とても美しい。 この意地の悪い美女の下心を感じさせるには、 かなり真面目な表現で、オージェの性格を感じる。 Track20のオルランドの勇ましいアリア 「戦場に駆り立てよ」も聞き応えがある。 Track21. 「メドーロはアンジェリカを見つけ、 誰と話をしていたかを知りたがる。 彼女は、それはオルランドだと言い、 そんな恋敵を相手にしてはいけないと言う。 彼等はまた会うことにする。 彼等の別れの抱擁はドリンダに見つかり、 彼女は、アンジェリカに、 メドーロとは婚約中であることを白状させる。 彼女は、ドリンダに、親切にして貰った事を感謝し、 宝石を手渡す。 ドリンダは、すぐにメドーロが贈り物をくれると言うが、 メドーロは許してくれと頼むが、 彼女は、メドーロが分からない程、 傷ついているという。」 ここで、非常に美しい二重唱が来る。 第1幕を終わらせる、素晴らしい音楽である。 Track23. 「アンジェリカとメドーロはドリンダを慰めようとするが、 彼女は悲嘆に暮れたままである。」 ロビンとオージェの声の絡み合いに陶酔する。 第2幕: ここからもまた、聴き所が続く。 ナイチンゲールと一緒に嘆く、 ドリンダのアリアが、精妙な夜気を含んだ、 オーケストラの序奏と共に始まる。 「ドリンダは、彼女の寂しさにふさわしい、 夜鶯の声にメランコリーを感じる。」 鳥の声を表すヴァイオリンも、 夜更けを思わせる低音の響きも魅惑的だ。 「オルランドが現れ、 王女イザベッラを愛しているなどと、 考えたかと、ドリンダに尋ねる。 混乱したドリンダは、 アンジェリカとその新しい恋人、 メドーロについて語りながら、 誤解したのだと言う。 そして、オルランドに貰った宝石を見せ、 メドーロからのものだと言う。 オルランドはすぐに、それが、かつて、 自分がアンジェリカに上げた、 ツィランテのブレスレットであることを見抜く。 彼女は裏切った、と彼は言う。きっと、 彼女は彼の多くのライヴァルのものになった。 いいえ、とドリンダは言って、 彼女が全ての花にその顔を見、 川の流れや森のざわめきにその声を聴く、 メドーロという若い男は、 まだ、彼女を待っていると考える。」 Track3.でも、彼女の、 メドーロを思う、メランコリックなアリアがある。 まこと、このオペラは、ドリンダが重要な役柄である。 「オルランドは怒りをぶちまけ、 自らを殺し、アンジェリカを地獄に道連れにするという。」 Track4.のオルランドの、 心臓の高鳴りを思わせるアリアは激烈で、 ボウマンのような、 柔らかいカウンターテナーではなく、 もっと、強い声で聴きたいものだ。 「月桂樹の木立、洞穴の入り口が見える。」 というシーンに変わる。 「ゾロアストロは、アンジェリカとメドーロに、 オルランドの怒りを高めないように言い、 唯一の道は逃げることだと言う。 愛の盲目の神に導かれていると、 人間は暗闇に彷徨うのみと警告する。」 Track5のゾロアストロのアリアは、 このように、有難い教訓である。 「恋人たちは立ち去ることを悲しむ。 メドーロは、月桂樹の木に、 彼等の名前を刻み、世界に、 彼等の愛を知らせようとする。」 Track8で、 「平原に木がある限り」という、 しみじみとしたメドーロのアリアがあるが、 どうも、彼等のする事は、オルランドを、 むかつかせることばかりである。 ロビンの歌唱は、いささか声量が足りず、 男性役としては、ちょっとリアリティに欠ける。 「アンジェリカはメドーロとキャセイに帰ることを決心する。 オルランドには、命を助けて貰ったことを感謝し、 愛は感謝や理屈ではないことが、 彼にも分かる時が来ると信じる。」 Track9が、そのアリアであるが、 オージェの生真面目さも感じさせる声が、 ひたむきさを表している。 Track10. 「オルランドが木立に来て、 木にアンジェリカとメドーロの名前を見つける。 彼は、洞穴に駆け込み、アンジェリカを追跡する。 しかし、彼女は木立の反対側から現れ、 木々や流れに別れの挨拶をする。」 Track10後半で、 笛の序奏のある、悲嘆に暮れた、 広い風景を思わせるアリアが聴ける。 一幅の音画になっている。 「洞穴から、強烈な怒りで出て来たオルランドは、 アンジェリカを木立の中に追跡する。 メドーロも出て来て、彼等を追う。 アンジェリカもオルランドに追いかけられている。 ゾロアストロの魔法が仲裁に入り、 アンジェリカを雲で包んで、 4人の魔神のいる場所に、運んでしまう。」 Track11. このあたりは嵐の効果音も入って活発な情景。 Track12. 「オルランドは遂に、正気を失う。」 とあるが、「ステュクス川の怪物たちめ」 と、ギリシア神話の地獄の魔物たちをあげつらって、 罵りまくっている。 この調子で、Track13、14と、 第2幕の最後まで、夢とうつつを行き来して発狂する。 解説者は、このあたりを、バロックオペラの中でも屈指の 驚嘆すべき音楽と書いている。 「彼は、地底からの影が、アンジェリカを取り上げたと考える。 彼は、自分も影となって、後を追おうとする。 カローンの船に乗って、スチュクス川を渡り、 プルートの王国の煙を出す塔を発見する。 ケルペウスが吠えかかり、フリアエが襲う。 最大のものはメドーロの姿をしていて、 プルートの妃の腕に逃げ込む。 彼女が泣くと、オルランドは、 地獄でも泣くことがあるのかと、 怒りが弱まる。 彼は、もう分かったから、 泣くのを止めよと乞う。」 このあたりが、Track14。 「しかし、彼の怒りは再び込み上げ、 いかなる涙も彼の硬い心を変えることが出来ない。」 かなり激烈な内容だが、ボウマンの歌唱は、 何だか、オルフェウスみたいに弱々しい。 Track14では、「ああ、愛らしい目はもはや」という 部分では、アンジェリカを夢見てかわいらしいメロディとなる。 ヘンデルの音楽は変幻自在で、妙に前衛的ですらある。 最後は雷鳴が轟いて、オルランドは連れ去られる。 「彼が洞穴に駆け込むと、ゾロアストロの戦闘馬車が現れ、 魔術師は、オルランドを抱えて飛び去る。」 第3幕: 「シュロの木立」という注釈がある。 Track1.素晴らしく幽玄な雰囲気の前奏曲がついている。 「メドーロは、ドリンダに、 アンジェリカが、彼を匿うように送られて来たと言う。 ドリンダは、彼が、 彼女を慕って来たのではないと知って、ぞっとする。 彼は、もはや心を上げるわけにはいかない、 と釈明する。」 Track3.では、メドーロが、 「私は心を上げたいが、今はそれが出来ない」 という、切実な歌を歌う。 「ドリンダは、彼が、もう彼女を騙していないと喜ぶ。 オルランドが現れ、ドリンダに愛を告白する。」 いったい、ゾロアストロって何?という感じ。 格好良く、情景を変えたり、戦闘馬車で現れたりするだけで、 まるで、何も変わっていない感じである。 「最初、ドリンダは、こうした得難い好機を喜ぶが、 激しくオルランドが、女神ヴィーナス相手のように、 求愛するに連れ、それがうわごとであることは、 明白になる。」 この、Track5の、 ドリンダとオルランドのやりとりの音楽は、 非常に冴えた感じがする。 はっと、気がついたドリンダの歌は、素晴らしい瞬間である。 「突然、ドリンダは、オルランドが、 その宿敵の一人、フェラウに殺された、 アンジェリカの兄、 アルガリアの心になっていることを知る。」 Track6. 「彼は、剣やヘルメットを投げ捨て、 素手でフェラウと戦おうと立ち去る。」 勇ましい歌に、気の抜けた歌が交錯する。 完全にうわごとのアリアである。 Track7. 「ドリンダはアンジェリカにオルランドの狂気を伝える。」 Track8. 「アンジェリカは同情し、彼が治ることを祈る。」 まさしく、そんな情緒のあるアリア。 Track9. 「ドリンダは彼女の最後の愛に対する考えを述べる。 それは、脳みそをくるくる回す風であって、 喜びと同様に痛みをもたらす。」 これは、コケティッシュな小唄という感じ。 世間擦れした小間使いの歌という感じ。 Track10、11. 「ゾロアストロが魔神を連れて現れ、 恐ろしい洞窟のシーンに変えさせる。 彼は、オルランドがまた、 以前の名声を取り戻すよう約束する。 嵐が明るい空に戻るように、 おかしくなった者も、気がつく時が来る。」 勝手に出て来て、勝手に歌って、勝手にいなくなる感じ。 この登場人物は浮いている。 音楽は、様々な楽器が鳴り響き、 交響的に充実したもので、迫力がある。 Track12.レチタティーボである。 「涙にくれたドリンダが、 オルランドが、彼女の家を壊し、 そこにメドーロを葬ったと告げる。 オルランドが現れ、アンジェリカを、 魔女ファレリーナだと言って、殺そうと脅す。」 Track13.は二重唱。 「しかし、彼女は、メドーロの死の報に触れて、 嘆き悲しみ、オルランドを無視する。」 この押し問答のような歌唱に続き、 何と、オルランドは、彼女に狼藉を働く。 歌手たちがテンポを変えて歌う、この曲を、 解説者は特筆している。 Track14. 「オルランドが、彼女を洞窟に投げ込むと、 それは美しいマルスの寺院となる。 オルランドは、世界中から、 恐ろしい怪物を一掃してやると宣言する。」 威勢の良いオーケストラが彼の勇猛を告げるが、 たちまち、その力は弱まってしまう。 Track15. 「すると、まどろみが彼を襲い、 彼は、三途の川の水を飲んだと錯覚し、 眠りについてしまう。」 これはまた、繊細なオーケストレーションである。 完全に、ロッシーニの「タンクレーディ」の、 死のシーンを先取りしたような神秘的な音楽。 ここで登場するのが、共鳴弦付きの不思議なヴィオラ、 ヴィオレット・マリーンである。 ヘンデルは、これをカストルッチ兄弟のための二重奏とした。 Track16. 「ゾロアストロが現れ、オルランドが、 正気を取り戻す時が来たと告げる。 彼は、ジュピターの鷲を使わし、 魔神にそれは案内され、 くちばしで金色の容器を運ばせる。 この中の液体をゾロアストロは、 オルランドに振りかける。」 失恋で大騒ぎする男を、なだめるために、 すごい仕掛けが必要なものである。 Track17.シンフォニアとある。 精妙な音楽が、その効き目を現している。 Track18. 「彼は目覚め、正気が戻っている。 ドリンダは、彼に、彼が逆上して、 メドーロを殺したと告げる。」 Track20. 「彼は深く後悔し、自殺しようとする。 しかし、アンジェリカはこれを制し、 生きるように言う。 「彼の嘆きによって、オルランドは死ぬ」と、 激烈なリズムが弾むが、 優しいアンジェリカの声が響くのが印象的。 この部分の強烈な効果は、解説でも、 関係長調で急上昇するものと、特筆されていた。 Track21. 「メドーロは実は、ゾロアストロによって救われ、 オルランドに、アンジェリカとメドーロの婚約を、 受け入れるように言う。」 物語を終わらせるために、いろいろ起こり、 レチタティーボで説明調である。 ようやく、ゾロアストロが魔術師であって良かった、 と納得できるシーンとなった。 最初からそうしろよ、という気もしなくもないが。 Track22. 「祭壇が焼け焦げたマルスの彫像の前で オルランドは自身に打ち勝ち、 アンジェリカとメドーロの手を繋がせる。 彼は、彼等の喜びを願い、アンジェリカとメドーロは、 そうすることを互いに誓う。 そして、ドリンダは悲しみを忘れ、 その小屋に皆を招く。」 オルランドの英雄的な宣誓に、合唱が応える。 Track23. 「全員が愛と栄光を賛美する」という、 はればれとした合唱である。 このCDは、さらに様々な情報を与えてくれる、 有難いもので、最後のページには、 手前に木管と第1ヴァイオリン、 奥にヴィオラと第2ヴァイオリン、 その間にチェロをサンドウィッチして、 左右に一対のチェンバロを配置した、 録音時の楽器レイアウトも図示されている。 「この録音がなされる前に、『オルランド』は、 アメリカツアーを行って、 18世紀の典型的なオーケストラ・レイアウトで、 セミ・ステージ形式で演奏した。 図のようなレイアウトは、この録音でも採用された。 風や雷の音響効果は、ドロットニンゲンホルム劇場の オリジナルマシーンで、18世紀当時の状態が保たれた、 唯一のものである」という、コメントあって、 効果音すら聴きものであることが分かった。 その他、このCD解説には、こんな事も書かれている。 1729年12月から1734年6月までの、 5シーズン、ヘンデルは、ロンドンのハイマーケットの、 キングスシアターのオペラ責任者をしていた。 「オルランド」は、この第4シーズン、 1732年から33年用のもの。 何と、私がこの記事を書いているのは、 5月の連休前であるが、 オルランドもまた、5月5日まで演奏されたらしい。 そして、ヘンデルが信頼を寄せていた、 カストラート歌手のセネジーノが一ヶ月もせず、 辞めてしまうという事件が発生した。 さらに、このCD解説では、 セネジーノが、この「オルランド」で仲違いしたのは、 納得できるとしている。 作品が、伝統的なオペラ・セリアとは異なり、 実験的であったことが問題であった。 全オペラを通じ、3つしかダカーポアリアがないこと。 しかも、最終幕には1つもない。 さらに、伴奏付きレチタティーボが大がかりで、 アリアが短いこと、アンサンブルを重視していること、 異なる拍子で歌われるデュエットがあることなど。 後は、リズムや楽器の効果の多様性などが解説で強調されていた。 主人公と主役級ソプラノとの二重唱も短く、 オルランドは第1幕の最後の三重唱など、 重要なシーンで登場しない。 第2幕最後の10分もの「狂乱の場」という見せ場があるが、 装飾音を振りかざす音楽ではない。 そもそも、この役柄は英雄なのか、 微妙な喜劇役者か分からず、 もし、後者なら、歌手を馬鹿にしていないか? この両義性こそが、「オルランド」を、 ヘンデル作曲のオペラの中で、 特殊なものに位置づけているという。 が、人気歌手は、これに付いて行けなかった。 なお、ヘンデルが、このオペラで、 へんてこなキャラクター、ゾロアストロを導入したのは、 当時の偉大なバス、アントニオ・モンタニャーナを 呼びたいがための措置だった模様。 ヘンデルは反対に、王女イザベッラ、 スコットランド王子ゼルビーノはリブレットから削除した。 得られた事:「ヘンデルのオペラ『オルランド』は、実験的作品の頂点。が、主役に慣習的な見せ場が乏しく、スター歌手に見限られた。」 |
個人的経験:前回、ヘンデルの 「オルランド」の第1、第2幕を クリスティの指揮、 チューリッヒ・オペラの映像で鑑賞。 物語が、ヴィヴァルディのような、 魔女や魔界が絡むものでなく、 人間本来の力を礼賛したような、 ごく道徳的、倫理教本的な内容に なっていることを知った。 しかし、このART HAUSのDVD、 演出は斬新で、 20世紀初頭風のコスチューム、 オルランドは殺戮線を好む、 ブラック将校として描かれていた。 したがって、 前回は、まだ見ていなかった第3幕では、 主人公オルランドが、 これまで戦場で行って来た事に、 悩まされるようなシーンがある。 映画「ライアンの娘」に出て来る、 精神を病んだ将校を思い出した。 ということで、今回は、 この続きを見てしまいたいが、 このオペラの特徴が、 まさしく、この未聴の第3幕に、 如実に語られていることを、 解説に書いてあることを発見した。 なお、ここに示したのは、その裏表紙で、 あしらわれているのは、 メドーロを思いながら洗濯物を干しているドリンダと、 ヒロイン、アンジェリカとメドーロの写真で、 ミヤノヴィッチの演じるタイトルロールの写真は、 表にしかないようである。 これらの写真を見るだけで、 ヘンデルが思いもしなかったような、 演出がなされていることは、 容易に想像できよう。 さて、今回は、まず、 このDVDの解説をざっと読んで見よう。 ステファン・ロッシという、 チューリヒ・オペラの、 ドラマチック・アドバイザーが書いたもの。 題して、 「オルランド、実験的アレンジ」とある。 「『愛はしばしば、道理を失う原因となる、 ということをオルランドは、 我々みんなに教えてくれている』 という一節が第3幕にあるが、 これは穏当なモラルで、 おそらく聴く人は、 オルランドにヘンデルが付けた音楽の、 劇的な手際よさや音楽的多様性には、 努力を必要としないだろうが、 オペラの問題の複雑さは、それよりも難しいものだ。」 という感じである。 「オペラの問題の複雑さ」が、ここに描かれた、 「愛」というものの難しさという事なのか、 これだけでは、ちょっと分かりにくいが、 これに続く解説部は、 このオペラ成立時の悪戦苦闘の様が読み取れる。 「1733年、1月27日、ロンドンにおける、 ヘンデルの『オルランド』の初演は、 キングズシアターのチラシより数日遅れてなされた。 これは、予想よりオペラ化時に問題があった、 ということだけではない。 ヘンデルのスコアの表紙には、 ヘンデルのオペラ、11月20日完成とある。 これは、メインの声楽パートの事であり、 オーケストレーションはまだで、 修正も残っていた。 舞台にかけるには、さらに膨大な時間をかけ、 当時の標準からしても、極めて華やかなものに、 いかに多くのものを要するかを聴衆は感じていた。 それに加え、ヘンデルは、その初演に、 タイトルロールを担当した、 著名なカストラート、セネジーノ率いる、 選りすぐりの歌手たちを集めた。」 ということで、 このヘンデルのオペラ「オルランド」は、 ヘンデルが準備万端にして、 万全の布陣で臨んだ意欲作だったわけである。 が、以下に不穏な記述が始まる。 「これは、この歌手にとって、 ライバルのオペラ座に引き抜かれる、 ヘンデルとの最後の仕事となった。 このような約束された将来にも関わらず、 オルランドは、普通の成功の ちょっとマシ程度のものになった。 次の作品もなしに、作品は、 急速にかき消され、1920年代の、 ヘンデル・ルネサンスまで、 オペラ・ハウスの演目に上ることはなかった。」 ということで、1733年のこの作品、 代表作「水上の音楽」の十数年後、 有名な「メサイア」の10年前に当たり、 ヘンデル48歳という壮年期の作となるが、 この作曲家の生涯でよく語られる、 「1718年イギリスに定住するようになってからも、 やはりオペラで成功しました。 しかし、そのうちに ヘンデルのオペラ運動の邪魔をする人たちもあらわれ、 それによる経営の困難から心身をすりへらし、 脳溢血になり、一時静養の止むなきに至りました。」 (現代教養文庫、野呂信次郎著「名曲物語」) といったエピソードのまっただ中の作品のようである。 さて、DVDの解説に戻ろう。 「しかし、この何世紀にもわたる無視は、 このオペラのどこにも異議のない出来映えに、 ふさわしいものではない。 ヘンデル専門家のウィントン・ディーンは、 『すべてのヘンデルのオペラで、最も豊かな音楽かもしれない』 と言っている。」 ここまで書かれるまでに、この作品は、 今回の演出はへんてこながら、 専門家も瞠目している作品であるということだ。 以下、リブレットの原作になった、 アリオストが、ひっぱって来た、 もともとの伝説にまで遡った解説を読んで、 私は、かなり驚いてしまった。 「アルチーナや、アリオダンテ同様、 イタリア・ルネサンス期の詩人、 ルドヴィコ・アリオスト(1474-1533)の 華やかな騎士道の叙事詩、 『オルランド・フリオーソ』からの三部作最初のものである。 これは歴史と神話がごっちゃになって発展した、 長い前史を持つものであった。 物語は778年のもので、 シャルルマーニュの撤退中の後衛軍隊が、 ピレネー山中で壊滅的打撃を受けた時で、 この時、フルオドランドゥス(Hruodlandus)が命を失ったとされる。」 フルオドランドゥスは、最初に「Hru」がついているから、 どうも別人に見えるが、これを外すと、 ほとんど、オルランドである。 「H」だけを取ると、「ルオランド」みたいになって、 「ローラン」とか、「ローラント」になると言うわけである。 「事実、『ロランの歌』のロラン伝説の誕生や、 異教徒と戦ったキリスト教徒の戦士、 ロランの冒険物語の伝承は、 1100年頃からの事である。 それから、15世紀になって、 ロランがイタリア詩人によって扱われるようになると、 オルランドと変更され、以降、そう呼ばれるようになった。 アリオストは彼のオルランド伝説を、 対抗作品、ボイアルドの『恋するオルランド』の続編として書いた。 そちらの方は、次第にアリオストの、 ずっと詩的に豊かな作品の名声にかき消された。」 何と、ここでも「ロランの歌」であった。 これは、シューベルトのオペラの下敷きになったものである。 シャルルマーニュの騎士ロランは、 イタリアでオルランドとなって、 ヴィヴァルディやヘンデルの作品となり、 独墺圏では、ローラントとなって、 シューベルトのオペラ『フィエラブラス』の、 重要な登場人物となっていた、 ということだ。 「ヘンデルの時代、これは良く知られていて、 それゆえに、リブレットの序文への記載を、 彼は簡単なアリオストの引用で済ませ、 さらなる説明を省くことが出来た。 オルランドの伝説は、オペラの素材として長く好まれ、 ヘンデルばかりか、リュリやヴィヴァルディ、 そしてスカルラッティによって取り上げられた。 アリオストのテキストを直接、ベースにするよりも、 ヘンデルと、今では名前不詳のリブレット作者は、 むしろ、カルロ・シジスモンド・カペースのリブレットを使い、 これはもともと、スカルラッティのために書かれたものだった。 レチタティーボは大胆に刈り込まれ、 カペースの詩句の半分程度がかろうじて残った感じ。 賛否両論の活発な議論にも関わらず、 ヘンデルは音楽そのものの表現伝達力を信じた。 一方で、重要な追加については、 書いて置く価値がある。 最も目立つ登場人物は、ゾロアストロで、 これはカペースにもアリオストにも出て来ない人物で、 ここでは、このオペラの重要な、 倫理メッセージを吐く役を担っている。 これは、時代精神を反映し、 感情の自己鍛錬に対し、強い賛意を投じる役柄である。 愛に打ちひしがれた男は、 理性や自己修養、社会的な目的を再発見できるよう、 自制するという男らしさに従うべきである。 しかし、ゾロアストロの役は、 オペラの要ともなり、 事の始まりを司ってもいる。」 やはり、このゾロアストロという登場人物は、 とって付けたように異質すぎる。 「一見して、オルランドのプロットは、 5人の登場人物からなる単純なものである。 エキゾチックな王女、アンジェリカと、 その恋人、メドーロは、幸福なカップルなのに、 望みない恋するライヴァルに追われている。 いまだ、そうした経験はしていないにもかかわらず、 ドリンダもまたメドーロを愛し、 オペラは自然な結果を辿る。 彼女の成熟は結局、立派に自己克服を見せる。」 このドリンダこそが、主人公と思われるくらいに、 印象的に、いたいけな役である。 「この物語の主人公、 騎士オルランドが巻き込まれる情事には、 そんな単刀直入さはない。 彼の誠実さは、最初から危険にさらされ、 矛盾した愛への望みと、 より永続的な戦場での栄誉によって、 彼は引き裂かれ、彼の内面のバランスが失われ、 次第に理性を失い、 彼の戦場での能力を買って、名声を護ろうとする ゾロアストロによって、最終的に癒されるまで、 狂気に屈してしまう。」 そんな物語だったっけ? 彼は、別に名声に引き裂かれたわけでなく、 メドーロが木に、アンジェリカ&メドーロ、 ラブラブ、などと書き付けたから、 狂気に陥ったものと思っていた。 少なくとも、ヴィヴァルディでは、 そんな展開であったはずである。 「事実、ゾロアストロだけが、 少なくともオペラの表面的な構成上は、 そのような感情を克服することができ、 状況管理をうまく行うように見え、 最終的にオペラ・セリアでは必須の、 よくあるハッピーエンドを守っている。」 この登場人物自体が、 そもそも取ってつけたみたいな存在であるが、 ハッピーエンドもありきたりな感じはするが。 これが、先にあった、時代精神という奴であろうか。 下記には、ヘンデルの書いた音楽のすばらしさが、 列挙された部分が続く。 「巧緻に編まれた登場人物や価値観の織物の下、 自発的で活気あるスコアによって、 オルランドは、ヘンデルの作品の中でも、 実際、一般のオペラ文献の中でも、 特別な位置を占める。 カペースの版とは対比的に、 アリア、アリオーソ、器楽が優位にあり、 ヘンデルのものはいくつかのアンサンブルもある。 オルランドにおいて、音楽は、こうした独立性や多様性を持ち、 音楽学者は、理由を持って、 『第6の登場人物』と呼んでいる。 スコアは、アクションを描写し、サポートするだけでなく、 コメントを差し挟み、出来事を和らげ、 テキストと音楽の中に内的な緊張を作り出している。 そして最終的に、独白とは、別のロジックを開発している。 オーケストレーションも多彩で、 例えば、共鳴弦付きのヴィオール、 『ヴィオレット・マリーン』を使い、 当時の聴衆を興奮させた。」 こんな変わった名前の楽器があるとは知らなかった。 画像検索しても出て来ない。 オーケストラの雄弁さのみならず、 感情表現の幅についても、 下記のように書かれており、 まるで、シューベルトの歌曲の解説を 読んでいるような錯覚に襲われる。 「そして舞台上の演技を常に反映した。 沈着から内面の狂乱、 美しい静けさから、絶望的なヒステリーまで、 音楽は感情の全域を描いている。 例えば、オルランド狂乱のシーンでは、 レチタティーボとアリアの慣習的な区別も完全に放棄されている。」 そして、このいっぷう変わったリブレットによって、 ヘンデルの妄想が爆発したという結論になっている。 「このように、思考過程の一般的な発生を阻止するリブレットによって、 オルランドの『狂気』にインスパイアされ、 ヘンデルは、当時のオペラ・セリアの慣習から、 最大限の逸脱を試みた。 それは、特別な音楽的先入観や予測を持っていた聴衆にも、 聞き取れたに違いない逸脱であった。」 では、前回、聴けなかった、第3幕を見ていこう。 第3幕: DVDの2枚目である。 また、管弦楽の序曲演奏から始まる。 クリスティのスタイリッシュな指揮が見られる。 オーケストラピットから浮かび上がる、 白髪がまぶしい。 舞台は病室である。 右半分はドリンダが机仕事をしていて、 左半分にはベットがいくつか並べられ、 そこでオルランドが寝ている。 つかつかとメドーロが入って来て、 枕をオルランドの顔に押しつけ、 窒息させようとする。 序曲がここで終わり、 気づいたドリンダが、メドーロが、 何故、ここにいるかと問い詰める。 アンジェリカに言われて戻ったというメドーロに、 それでもいいから家に来てというドリンダ。 愛してくれなくても、かけがえがない人よ、 と健気なことを言う。 すると、二人は互いの服を脱がし合って、 ドリンダは彼にしがみつく。 かなり、きわどい演出である。 お子様同伴では、見に行かない方が良い。 が、メドーロは、心が自分のものでないことを、 短いアリアで、ドリンダに説明して去って行く。 解説に、 「メドーロは、ドリンダに彼の振るまいについて、 彼の心は、アンジェリカのものであるがゆえに、 ドリンダを愛することは出来ない、と弁明する。」 とある部分であろう。 病室のベッドの中で、オルランドは、 いきなり、ドリンダに声をかける。 「狂乱の中、オルランドは、 驚き、仰天するドリンダに愛を告白する。」 何と、ここではすっかり英雄が、 メドーロのような色男になって、 ドリンダを愛撫し始める。 ここでアリア。 すごい展開だ。 ドリンダもまんざらではなく、 羊飼いの女に英雄の血を混ぜるの、 などと戯れている。 快活な歌唱で合いの手を入れ、 まったりとしたオルランドのアリアに変化を与える。 アリアの中に合いの手を入れるのは、 ベッリーニなどの発明みたいに書く人もあるが、 ここでは、それと同様の効果が得られている。 何だか、オルランドは狂っているのである。 狂うのが彼のアイデンティティなので、 狂って貰わないと困るのだが、 ベッドに起き上がって騒いでいるだけなので、 単なる幻覚にも思える。 「オルランドは今や、錯乱し、 過去の戦いにおいて出て来た人物、 そして殺した人物が心に現れ、幻覚に苦しむ。」 とあるように、 彼は遂にベッドの上に立ち上がり、 受けて立つとか、私は死んだ、とか、 感情の振幅の激しい躁鬱状態の、 奇妙なアリアを歌い続ける。 そのうちに医師か看護士の一団が現れると、 オルランドは逃げてしまう。 代わりに入って来るのはアンジェリカ。 「アンジェリカはオルランドに哀れみを感じ、 再び、彼が良くなることのみを望む。」 と、解説にあるのは、彼がヤバいことを、 ドリンダが説明したからである。 愛と嫉妬で錯乱した、 と説明すると、愛は意志ではなく、 運命だと説明するアンジェリカ。 ドリンダは、思わず、アンジェリカを引っぱたいている。 何と、鼻血がだらだらとアンジェリカの手から滴る。 その状態で、アンジェリカのアリア。 こんなオペラ見た事ない。 が、感情が高ぶって歌い出されるのがアリアだとすれば、 これは、きわめてオペラの基本に忠実な演出だと、 言うことになる。 恐怖に打ち勝ち、魂を自由にして、 そう願うのは当然です、と真摯な感情が歌われるが、 ドリンダは、机での執務に戻り、無視している。 「オルランドの狂気の沙汰を聴くうちに、 ドリンダは、愛のエッセンスが分かるようになる。 それは混沌であり、幸福より苦しみを運ぶものである。」 ドリンダは机の所を離れ、 そうした事を語った後、 総括するような生き生きとしたアリア。 愛は心地よいが、短い快楽の後で、長い苦悩が始まる、 と、深い内容の歌を歌われる。 ドリンダの歌は長く、コロラトゥーラも軽快な、 ヴィヴァルディ風の爽やかな曲想ながら、 嫉妬や怒りが歌われている。 ベッドの1つに横たわってしまった、 アンジェリカを追い出したり、 布団を投げたり、 枕で戦ったりして大忙しだ。 すると、ザラストロが、 オルランドの教訓は、 「愛は理性を忘れさせることもある」ということだ、 などと、一人、超越者のように部下を引き連れ現れる。 「ザラストロは、オルランドの狂気を、 きっぱりと治す実験を執り行おうと考える。」 看護婦や看護士は、アンジェリカやドリンダを、 立ち上がらせる。 ドリンダは退場となる。 そして、怪しいベッドの準備がなされ、 ザラストロがアリアを歌う中、 アンジェリカはそこに縛り付けられる。 ナイフまで取り出して物騒である。 しかし、アリアはものすごく技巧的なもの。 そして、そのナイフはベッドの上にのこし、 アンジェリカを放置して去ってしまう。 「オルランドが入って来て、 アンジェリカを殺そうと決意している。」 とあるように、オルランドはそのナイフを手にする。 アンジェリカとオルランドの二重唱である。 「彼女はメドーロを失ったと信じ、 アンジェリカは生きる望みを失い、 あまり抵抗しない。」 狂気のオルランドは、おののいてはいるが、 しかし、無抵抗なアンジェリカを抱きかかえ、 遂には、彼女の腹部にナイフを突き立てるが、 そのナイフはザラストロの用意した、 刺すと引っ込むナイフである。 オルランドは怪物を退治したと満悦であるが、 だんだん、表情が変わり、 私は忘却の飲み物を味わう、とか言いながら、 力を失って行く。 「彼がアンジェリカへの復讐を遂げたと考えた後、 疲れ果てたオルランドを麻痺が襲い、 彼は深い眠りに陥る。」 気を失ったアンジェリカの顔を撫でながら、 室内楽的な、繊細な伴奏をバックに、 鬼気迫る形相で、息の長い祈りのようなアリアが歌われる。 そして、そのまま、同じベッドに倒れ込んでしまう。 「ザラストロと彼の助手たちが到着し、 彼を正気に返らせようとする。」 まずは、気付け薬で、アンジェリカを運び去り、 その後の部屋はオルランドを手術するための部屋となる。 ザラストロのアリアは、 天にオルランドが正気になることを祈るものだが、 マスクや手袋をして、施術する模様。 手術室は幕で隠されている。 その間、音楽は、天の恩寵のような音楽が奏でられている。 パストラル調で、ひなびた響きが美しい。 「オルランドは目を覚まし、 正気に返っていることを自覚し、 これまで犯しそうになった恐ろしい事柄に対し、 償いをするべく自殺しようとする。」 しかし、どんな手術をしたのか不明で、 単に、軍服を着せられている。 勲章もいっぱい付いて、さすが英雄である。 が、しみじみとレチタティーボを歌っている。 愛する人への復讐にオルランドは死ぬ、 というアリアが歌われる。 すると、アンジェリカが、死んではいけません、 という声を上げる。 これは美しい瞬間である。 「アンジェリカは、彼を止め、ザラストロと、 今や、メドーロへの思いを断ち切ったドリンダは、 オルランドに、アンジェリカとメドーロを祝福するよう頼む。」 オルランドは魔女と魔物に打ち勝った。 今度は自分と愛に打ち勝った、と声を上げる。 「最終的に、彼の狂気は治り、 オルランドは自らを律したことを言祝ぐ。 最後、彼はアンジェリカなしに生きることが出来るようになり、 名声と愛を讃える賛歌が全員によって歌われる。」 美しい朝から美しい日が訪れる、 と歌い出される、合唱の音楽。 「英雄オルランド」と書かれた台の上にオルランド。 左右にメドーロとアンジェリカと、 ザラストロとドリンダが配置されて、 シンメトリカルな調和の中で全曲が閉じられる。 カーテンコールでは、意外にザラストロへの拍手が多い。 クリスティも上がって来て、大歓声に包まれている。 得られた事:「シューベルトの『フィエラブラス』の名将ローラントと、オルランドは、同じ、Hruodlandusを起源としていた。」 |
個人的経験:ヴィヴァルディの他にも、 オルランドの物語に、 音楽をつけて、 オペラにした人は多い。 特に、ほぼ同時代に書かれた、 大家ヘンデルの作品は、 それなりに有名なものらしい。 今回のDVDも、 大家クリスティが 指揮をしている。 が、表紙写真を見る限り、 ヤバい感じぷんぷんで、 見たいような、見たくないような、 二律背反の感情に襲われる。 黒板の前で白衣を着た男?が、 荷物の上に乗っている。 虚空を睨む表情が危険な感じでしょ。 が、序曲からして、クリスティの格調高い、 鋭敏かつ潤いにも欠けない音楽が始まる。 暗い舞台を向こうに、上品な白髪頭が、 マッチ棒のように浮かび上がる演奏風景も、 流麗で、心ときめくものを感じさせる。 演奏はチューリッヒ・オペラの、 「La Scintilla」オーケストラとある。 へんてこな演出をしたのは、 ドイツの有名な映画監督とは別人の、 イェンス=ダニエル・ヘルツォークという人だ。 さて、何よりも雄弁なのはヘンデルの音楽かもしれない。 荘重な部分の深み、軽快な部分の浮き立つ感じも、 この作曲家の器楽曲を 愛好してきた人々を満足させるものだ。 とはいえ、現代の表現で、昔、 サーストン・ダートなどの演奏の、 分厚い弦楽の海に浸った人は、 時代を感じるであろう。 しかし、ほとんど同じ時代の産物でありながら、 ヘンデルからは「水上の音楽」の響きが感じられ、 ヴィヴァルディからは、「四季」の余韻が感じられ、 同じバロック・オペラと言えども、 聴かれた環境や作曲家の個性は明瞭である。 このDVDは、ARTHAUSのもので、 2007年にチューリッヒのオペラ・ハウスで 上演されたもののライブ記録のようである。 二枚組で、一枚目には第2幕までの108分、 二枚目には第3幕の47分が収められている。 ただし、解説を見ると、 TVレコーディングチーム、 とか書かれているので、 この舞台は、テレビで放送することを、 かなり想定したものだったのだろう。 DVDパッケージには、 イタリア語、英語、ドイツ語、フランス語、 スペイン語のサブタイトルしか、 ないような書かれ方がされている。 が、何故か、メニューを開けてみると、 ちゃんと「日本語」があって、 選択すれば日本語字幕が出る。 それにしても、この「オルランド」、 主人公こそ、ヴィヴァルディの 「オルランド・フリオーソ」同様、 騎士オルランドであるが、 他の登場人物がかなり圧縮されている。 アンジェリカとメドーロのカップルは、 かろうじて登場するが、後の二人が、 ゾロアストロとドリンダって何? という感じである。 5人しか登場しないという。 これは、解説にも書いてあるが、 理解するのが容易になって助かる。 しかし、魔女アルチーナはどうした。 オルランドの失恋狂気で、この不死の怪物を、 なぎ倒すのが、オルランドの醍醐味かと思っていた。 これだけ見ると、このオペラは、 単に、オルランドが、すでに恋人同士である、 アンジェリカとメドーロのお邪魔虫である、 というだけの話になっているように見える。 ただし、さすがオルランド、 理不尽とも言える狂気の物語であることは、 このDVDの表紙に見られるとおりである。 ということで、気になるプロットを、 先に読んでしまおう。 以下、括弧でくくったところは、 書かれている内容。 第1幕: いきなり、白衣のおっさんが、 黒板に図や字を書きながら、 人の心の不可解さを歌う。 「ゾロアストロは、偉大な兵士、 オルランドが恋わずらいになり、 かつての輝かしい英雄的な行いを取り戻すことに、 上の空になっていることを心配している。」 いきなり、何だこりゃ、という感じ。 そもそも、オルランドは、 シャルルマーニュの騎士だったのでは? 何故、拝火教の親分が出て来るのだ。 このようにあるので、 先のおっさんが、問題のゾロアストロであることが分かる。 バスのコンスタンティン・ヴォルフである。 何と、明かりが点くと、看護婦たちが多数いて、 将校姿の男(男装した女性)を迎え入れる。 「オルランドが入って来ると、 名声への愛と、アンジェリカへの愛に、 引き裂かれた男であるとわかる。」 軍服を着た将校が、オルランドであろう。 アルトのマリヤーナ・ミヤノヴィッチである。 迷う心を歌い上げている。 表紙写真を信じてはいけない。 もっと、カッコ良いイケメン将校になっている。 その間、医者はX線写真などを見ながら、 看護婦とやりとりしている。 おそらく、オルランドは病気なのである。 「ゾロアストロは、アンジェリカを 忘れるように説得するが、 オルランドは納得せず、 業績の栄光と私的な愛の調和の道を模索する。」 白衣のおっさんは、診察をしながら、 大きな功績に心をかき立てろ、と忠告している。 恋い焦がれて死ぬとオルランド。 このレチタティーボのやりとりの中、 リコーダーなどの優しい音色が響き、 愛は消えるが名声は永遠だと、 ゾロアストロの力強いアドバイスのアリアが舞い上がる。 介護人みたいなのが、オルランドを椅子に押しつけ、 かなり乱暴な扱いをする医者である。 謎の注射まで打たれてしまう。 オルランドは呆然となって、 みんなは出て行った後も、 なおも、めそめそとしているが、 所々で、勇気を出せ、と自らを戒めている。 水上の音楽のようなホルンが勇壮で、 ヘラクレスの例えの歌が始まる。 彼は勇敢で、愛もしたと歌い上げる。 ミヤノヴィッチは、背も高く、 すらりと均衡が取れて、 青年将校の役柄にぴったりである。 音楽は、同じモチーフを繰り返して、 平明かつ豊かである。 「ドリンダは沈んでいて、 彼女の心はメドーロとの出会いによって、 かき乱されている。 彼女はこれは真の愛かと自問する。」 ヤギやシカが休んでいて、鳥の声、そよ風と、 黒人の看護婦さんが、明るい声を上げるが、 後半、急に影が差し、全てが曇ってしまったと嘆く。 そもそも羊飼いか何かの役柄だが、 ここでは、洗濯物を干しているようである。 クリスティーナ・クラーク(ソプラノ)である。 彼女は気づいていないが、背後では、 彼女にちょっかいを出そうと、 パナマ帽の男がうろついている。 すると、オルランドが実際にちょっかいを出し、 妙な挨拶をして去ると、ドリンダは、 あれが名高いオルランド?などと言う。 それから、アリア。 切迫感があって、やや暗い色調のもの。 洗濯物を片付けながら悶々としている。 「アンジェリカの登場。 オルランドと前に約束していたのに、 彼女は怪我を介抱して治したメドーロを、 今は愛している。」 暗がりのベッドで、このような状況説明を行い、 ややこしい恋の煩いを、 ソプラノのマルティナ・ヤンコーヴァが、 黒電話をかけながら、なまめかしく歌っている。 伴奏のヴァイオリン独奏が美しい。 すると、メドーロ登場。例のパナマ帽である。 カタリーナ・ピーツは、メゾ・ソプラノで、 このカップルは、実際は女性同士が演じている。 いきなり、無邪気にいちゃつき合って、 舞台上で絡まり合って歌っている。 「メドーロはアンジェリカの愛を取り戻したのに、 彼は、ドリンダを愛していると言うことを、 止められずにいる。」 とあるように、アンジェリカが出て行くと、 ドリンダが来て、なかなか会えないと、 メドーロに愚痴を言う。 信頼したいけど、心が嘘という、 などと叫ぶ。 「ドリンダはメドーロを信じたいが、 彼女は直感的に彼の嘘をかんじる。」 メドーロは色男なので、ワインを注ぎながら、 それは嘘だ、と言い返せ、などとうまいことを言いながら、 看護婦の帽子もエプロンも取ってしまう。 そして、取り出した口紅を、ドリンダの唇に塗りつけ、 ダンスを踊りながら、荘重な歌を歌い、 彼女をベッドに押し倒してしまう。 ここでも、なまめかしいヴァイオリン独奏が美しい。 何故か、メドーロはそのまま行ってしまい、 ドリンダは、嘘でも心が躍ると言って、 嘘と分かっても信じたいという、 明るいアリアを歌い出す。 これで5人の登場人物が、みな、登場したが、 この状況、非常にややこしい。 が、図示すると単純である。 ゾロアストロ ↓(忠告) オルランド →アンジェリカ←→メドーロ ←ドリンダ 場面が変わって、ゾロアストロが、 アンジェリカに忠告するシーンとなる。 「ゾロアストロはアンジェリカに、 オルランドの復讐を警告する。 彼女は彼に対して不実であった。」 彼女は、英雄には感謝する、と言っている。 そこに、アンジェリカの消息は、 などと言いながらオルランド登場。 いきなり酒をあおり出す。 「アンジェリカがオルランドと出会うと、 彼女は、用心深く自分を、 オルランドが愛と栄光の渦巻きの中、 救ったと思われる王女と比較する。」 どうやら、英雄はイザベラという王女を助けたらしく、 アンジェリカは、飛び込んで来るや、 そのことを取り上げて、 ドリンダには、恋人に見えたそうよ、 などと非難。何だか、企んでいる様子。 あなたが助けた王女をすぐに追いやって、 などと無理な注文をつける作戦に出たようだ。 信頼を得たいなら、忠誠心を見せて、 という憎たらしいアリア。 典雅で、しみじみとした情緒、 テオルボやガンバの響きの簡素さも美しいもの。 抱きついたり、指を絡めたりで歌っているが、 こんな作戦で、オルランドから逃げられるのだろうか。 無理を言えば、嫌われると考えたのかもしれない。 この間、メドーロが入って来ようとするが、 ゾロアストロに止められている。 アンジェリカは最後にキスをして去る。 オルランドは言うとおりにしよう、という。 そして、何とでも戦う、というアリアを歌う。 勇ましいもので、装飾音が強烈に散りばめてある。 「オルランドは、アンジェリカに、 戦争に行くと言って、 自分の愛を証明しようとする。」 とあるから、アンジェリカは、 オルランドをたきつけて、 どっかにやろうとしたようだ。 このアリア、強烈な拍手が起こる。 オルランドが去ると、 先ほどのやりとりを見ていたメドーロを、 アンジェリカに言い訳しなければならない。 そこで、ベッドが現れ、彼等はそこに飛び乗る。 大胆な演出である。 「その間、メドーロとアンジェリカは、 アンジェリカの母国に逃避して、 邪魔されないで、 愛に生きることの実現を希望する。」 が、その瞬間、ドリンダが入って来て目撃。 「ドリンダはカップルに知らずに出くわすが、 彼等は、いつか、彼女も真の愛を見つけるだろうと言う。」 つまり、彼等は開き直り、泣き崩れるドリンダに対し、 美しい羊飼い元気を出して、などと、 美しく調和する女声二重唱で慰める。 だめよ、などと、ドリンダも唱和するので三重唱となる。 「絶望するドリンダに別れを告げる時、 アンジェリカは、彼女に宝石をプレゼントする。」 と解説にある。 その間、メドーロは、慰めるふりをして、 ドリンダを愛撫し続け、最後はカップルだけが、 ベッドにしけ込むというトンデモ演出。 このメドーロ役のカタリーナ・ピーツ、 女性でありながら、ちょびひげをはやし、 見事に色男をいやらしく演じている。 ネットで調べると、いけいけ感のある、 なかなかいけてる女性である。 このあたり、一幕を終わらせるのにふさわしい、 たいへん、充実した味わい深い音楽を味わうことが出来る。 第2幕: 「ドリンダは、メランコリックなムードの中、 ナイチンゲールの歌を聴いている。」 先ほども、ドリンダは嘆いていたので、 前のシーンが続いているような感じであるが、 ここでは、暗い闇の中で、一人内省的に歌われる。 ナイチンゲールの声を、ちょんちょんちょんと、 ヴァイオリンの高音が暗示する、澄んだ感じの音楽。 彼女もまた、このナイチンゲールの声を聴いて、 悲しみを共有している。 クリスティーナ・クラークという、黒人の歌手。 声も美しく安定していて、主役並みの大活躍である。 ネットで見ると、ウェブサイト準備中と出た。 そんな彼女に、テーブルに座っていたオルランドが問いかける。 何故、イザベッラのことを言いふらすのか、 などと聴いている。 「オルランドは、彼女に、 アンジェリカに不実である、と言われた、 と訴える。」と解説にあるシーン。 ドリンダは、そんな事は言っていない、と言い、 私も、愛するメドーロがブレスレットをくれて、 去って行った、などと言う。 「ドリンダは、理解できないものが、 あるに違いないと言う。」 「しかし、オルランドは、 ドリンダがアンジェリカから貰った宝石を見つけると、 それは、かつて、自分が、 アンジェリカに上げたものであるようだと気づく。 その瞬間、彼は、自分が愛した女に裏切られたと気づく。」 オルランドが、テーブルに座って、 頭を抱えると、ドリンダは、またまた、 美しく憂いに満ちたアリアを歌う。 全く持って、ドリンダが主役である。 「ドリンダが、失恋の歌を歌い、彼女には、 回りにあるものが、すべてメドーロの顔に見える。」 とあるが、木のそよぎなどが、 メドロはここだ、と言ってるように聞こえる、 という、切ない切ない歌である。 このとき、オルランドは、真剣な表情で虚空を睨み、 時折、酒をあおっていて、かなり危険。 「オルランドは深い絶望に沈み、復讐を誓う。」 きりりとして精悍な、ミヤノヴィッチは、 この神経質な役柄にぴったりだ。 切迫感のある音楽がわき起こり、 一人になったオルランドは斧を取り出して、 道中を狙う、と物騒な歌を歌い上げる。 制止にに来た警官も追い払い、 剣のひと突きが私を癒すなど、と言い、 顔に墨を塗りたくったりする。大拍手。 ゾロアストロは、そんな様子を見ていて、 アンジェリカとメドーロを追いだそうとする。 「ゾロアストロは、アンジェリカとメドーロに、 すぐに出立するよう説得し、 道理と感情の自己修練の美徳を讃える。」 後半はアリアで、黒板の前、怪しげな講義をしながら、 数式がどんどん、「ORLANDO」とか 「AMOR」とかになっていく。 「恋人たちは、彼等の差し迫った出立を悲しみ、 メドーロは、二人の名前の入った刻印を刻み、 それを見た人が、彼等の愛を思い出せるようにした。」 と解説にあるが、見慣れた森と別れるのは辛い、 などとアンジェリカは歌っている。 舞台は病院の中みたいな設定だが、 ドリンダは羊飼いだし、 実際は、もっと牧歌的な情景なのであろう。 馬を用意して、などとアンジェリカは言うし、 草原よさようなら、井戸よさようならとメドーロも歌う。 上記、解説にある刻印は、月桂樹にするようだ。 メドーロが歌いながら、そう言っている。 彼は黒板の「ORLANDO」を消し、 「AMOR」のA(アンジェリカ)と、 M(メドーロ)だけにする。 この間、メドーロは、ずっと、しみじみとした、 住み慣れた土地への別れを歌っている。 「アンジェリカは、オルランドに対する忘恩を気にするが、 愛のより高い力のせいにする。」 恩知らずとは言わせない、というアリアを歌う。 病院関係者は、服を着せたり、鞄を持ってきたりして、 アンジェリカを去らせようとする。 ヤンコーヴァという歌手がアンジェリカ役であるが、 チェコの歌手だとある。いくぶん、線が細い感じか。 「オルランドはメドーロの刻印を見つけると、 苦悩から精神病の兆候を見せる。」 オルランドは、誰もいない黒板の前に来て、 これを刻んだ手はどこだ、とお怒りである。 「その間、悲しげに別れを告げているアンジェリカを、 彼は追うことを誓う。」 緑の森やせせらぎ、秘密の洞窟、さようなら、 と旅装束のアンジェリカが歌う。 この出で立ちは、20世紀初頭風という感じだろうか。 タイタニックな感じで、自然のかけらもない舞台であるが。 切々たる感情を歌う、 ヤンコーヴァの声を支えてリコーダの音が、 儚い響きを浮かび上がらせる。 18世紀の英国で演奏されたというこのオペラ、 そうした自然回帰への憧憬があったのだろうか。 はらはらと花吹雪が舞う中、 病院のみんなが別れを告げに来る。 歌が終わると、何と、白衣の中の一人は、 顔に墨を入れたオルランドになっている。 恐ろしい演出である。斧を持っている。 これは怖い。 「オルランドはアンジェリカを見つけ、 狂乱の最中、アンジェリカを掴まえる、 神秘の領域にいると信じている。」 斧を振り回して、邪悪な悪魔め、 惨めな私、私は幽霊だ、影だ、と 黄泉への船だとアンジェリカのトランクに乗る。 これが、表紙写真に使われたシーンだ。 これで、表紙シーンのオルランドが、 何故、白衣を着て、顔がへんてこかが分かった。 ここでは、顔に墨が塗ってあるので、 狂気が強調されているのである。 「狂気の中、彼は、その涙が彼の心を癒す、 プロセルピナの姿を見る。」 ゾロアストロを見て、メドーロだ、 プロセルピナだと大騒ぎして、脱力し、 これまた、悲嘆にかきむしられたようなアリアとなる。 その間、アンジェリカは逃げてしまう。 すると、私の心はダイヤのように硬く、 怒りは柔らがない、という、 技巧的なアリア後半となる。 「しかし、再度、凶暴な狂気に陥ると、 ゾロアストロと副官たちの仲裁によってしか、 最悪の事態は避けられなくなる。」 ゾロアストロと部下に向かって斧を振り回すが、 力尽きて幕となる。 以上が、このDVDの1枚目である。 ここまで見てきたように、 ヴィヴァルディの「オルランド・フリオーソ」より、 ずっと整理さえた筋書きとなっている。 すべてを超越した仲裁者、ゾロアストロなどが居る点からも、 合理主義的な気配濃厚。 21世紀の先の見えない時代には、ヴィヴァルディの方が面白い。 DVDの2枚目は、次回、聴くとして、 今回の内容だけでも、ヴィヴァルディのものとは、 かなり内容の異なる「オルランド」であることが分かった。 基本の性格は、愛ゆえに狂気に陥る英雄ということで変わりない。 また、メドーロを愛しているアンジェリカを愛し、 アンジェリカは、その思いから逃げるために、 様々な手段を講じるという点が共通である。 ヴィヴァルディのアンジェリカは、 オルランドに、不老の薬を取りに行かせ、 ヘンデルのアンジェリカも、 難題を上げて、戦地に送り出している感じであろうか。 違うところの方が多い。 ここでは、オルランドの仲間の騎士は誰もおらず、 前述のように魔法の島の魔女もない。 この作品は、「魔法オペラ」と呼ぶには、 あまりに合理的な感じがするが、いかがであろうか。 音楽も、そうした行き方に従って、 おおむね堅実で美しく、 ヴィヴァルディのようなカプリシャスな感じは少ない。 台本では、ゾロアストロという、謎の男が現れ、 力があるのかないのか、ほとんど主役級の活躍を見せる。 得られた事:「ヘンデルの『オルランド』は、ヴィヴァルディのものとは異なり、魔女の出て来ない現実路線。」 |
個人的経験:メトロポリタン・オペラの 有名なメゾ・ソプラノ、 マリリン・ホーンは、 ロッシーニの英雄役でも 名を馳せる録音を残したが、 ヴィヴァルディのオペラでも、 先駆的な役割を果たし、 「オルランド・フリオーソ」 では、全曲をレコード録音し、 画像でも舞台上演を記録した。 私が持っているDVDは、 中国語の簡体字、繁体字の字幕があり、 台湾製か香港製かという感じ。 あるいはチャイナタウン仕様か。 なかなか洒落たデザインの表紙で、 立派な兜をかぶり、金色に輝く盾を持った、 英雄オルランドに扮するホーンが、 赤と黒の背景に、すっくと立って、 前をしっかりと見つめている。 この映像記録については、 相澤啓三著「オペラの快楽」(JICC出版局)でも、 紹介されている。 「舞台は童話的で、三度狂乱の場をつとめる マリリン・ホーンは、初演の技巧的な ドラマティック・アルト歌手、 ルチア・ランチェッリをあてこんで書かれた 名人芸をたっぷり聴かせ、 あれよあれよとばかり演じて見せます」 とかなり魅力的な言葉を連ねている。 ただし、ここで紹介されているのは、 この著書が20年前のものということもあって、 米HomeVision製のビデオ・テープである。 私の手元にあるのは、中国で好まれた、 マグネット式の開閉部のついた箱入りDVDで、 Prosuced by RM ARTS と書かれている。 箱の裏には、うまく、内容がまとめられた紹介文がある。 「アントニオ・ヴィヴァルディのオペラは、 魔女、アルチーナに魔法をかけられた島での出来事。 年を取って醜いにもかかわらず、 アルチーナは、魔法の力で、自らを美貌に変え、 島に流れ着く廷臣たちを魅惑する魔法を使っていた。 彼女は、地獄のヘカテ寺院の魔界像を、 無敵の番人アロンテに護らせて、 その力を永遠のものとしていた。 運命の導きによって、他の重要登場人物が、 この島に導かれる。 つまり、美しいアンジェリカと、 彼女の若い恋人でサラセン人のメドーロ、 そして嫉妬深いオルランドである。 彼はキリスト教国の騎士、 シャルルマーニュの甥であって、 アンジェリカを愛している。 彼等は狂おしい情熱と絶望の 計略的な愛の物語にからんでいく。 サンフランシスコ・オペラによる この『オルランド・フリオーソ』は、 そのベルカント歌唱の揺るぎない卓抜さによって、 今日の傑出したパフォーマーとなっている、 アメリカのメゾ・ソプラノ、 マリリン・ホーンをはじめとする スターキャストを誇っている。」 どうやら、「タンクレーディ」などの演出をしていた、 ピッツィによる演出で、この演出家が、 名作ながら忘れられたオペラの発掘に、 かなり力を入れている人であることが分かった。 登場人物を鮮やかな色彩の衣装で切り分けるのも、 この演出家の特色であろうか。 今回の舞台もカラフルで分かりやすい。 ランドール・ベーアという人が指揮する、 サンフランシスコ歌劇場管弦楽団&合唱団のもの。 マリリン・ホーンの他、ウィリアム・マッテウッツィ スーザン・パターソン、キャスリーン・クールマン サンドラ・ウォーカー、ジェフリー・ゴール ケヴィン・ランガンらが登場。 では聴いて行こう。 Track1の序曲からして、 現代のオーケストラのゴージャスな音響。 が、短く、すぐ終わる。 いきなりTrack2で、 オルランド扮するホーンが、 「暗い世界から」とか、「愛は征服する」とか、 歌い上げている。 愛するアンジェリカを探しているのである。 ホーンの声をいきなり聴けるのは豪華であるが、 「タンクレーディ」でも書いたように、 狭い気道から絞り出されるような独特な声である。 もうすこし、輝かしさが欲しいところだ。 オルランドが退場すると、船に乗った アンジェリカが現れ、 遭難して死にそうになっている騎士メドーロを見つける。 彼は、彼女の恋人である。 その後から、もっと大きな船に乗った、 魔女アルチーナが現れ、騎士は息を吹き返す。 このあたり、やたら笑い声が上がる。 装置が安っぽいせいと、おとぎばなしめいた、 あるいは学芸会的な演出にせいか。 アンジェリカがメドーロと抱き合うと、 それを見ていたオルランドが現れる。 アンジェリカのアリア。 嫉妬の恐ろしさで知られたオルランドである。 アンジェリカは、メドーロは兄弟であることにしてしまう。 ここでのアリアは、美しいコロラトゥーラを伴う、 音楽的なものである。 そんな事を言いながら、二人は行ってしまうので、 オルランドは嫉妬のアリアを歌う。 これも活発な伴奏を伴うもので、 ホーンの個性的な歌唱が楽しめる。 アルチーナが一人残ると、 彼女は永遠の命を持っているので、 男を次々変える必要があることを説く。 そこに、ピンクの騎士ルッジェーロが、 金色のペガサスに乗って現れ、 お互いに眼差しを交わす。 アルチーナの両脇には、 魔法によって石に変えられた、 ハンサムボーイが彫像のようになっている。 ルッジェーロは、 恋人のブラダマンテを思いながらも、 彫像からの怪しい泉の水を飲んでしまい、 少しずつ、アルチーナに惹かれ始める。 このあたりでも聴衆はゲラゲラ笑っている。 彫像が、時折、形を変えるからである。 Track3. フルートの前奏を伴う、カウンターテナーの ルッジェーロ(ジェフリー・ゴール)のアリア。 このメロディは、限りない憧憬を表して、 きわめて官能的に美しい。 「あなただけが私を満足させる」などと、 完全に術中にはまっている。 フルート奏者は、18世紀風の出で立ちで、 舞台の上で吹いている。 「あなたの目は私の港」などと魔法で見つめ合う二人。 18世紀版「トリスタンとイゾルデ」である。 陶然と歌っているところに、緑色の騎士の出で立ちで、 元々の恋人のブラダマンテが出くわす。 「私は不幸な女」とか言っていても、 ルッジェーロは彼女を知らないという。 会場からは笑い声。 ブラダマンテはビレーノと名乗ることに決める。 Track4.典雅な舞曲風の前奏に乗って、 紫色のドレス、黄色いマントのアルチーナ (カスリーン・カールマン)が、 きわめて扇情的な影を宿したアリアを歌う。 メゾ・ソプラノで、深い声だが、 少々デッドな録音が、その良さを引き立てきれていない。 アルチーナが去ると、ブラダマンテに対して、 ルッジェーロが、「何だか見た事が」とか言って、 記憶が曖昧な事をばらすと、 「何と不実な心」などと、ブラダマンテはお怒り。 最後は、ルッジェーロがくれた指輪を見せると、 何とか、彼は恋人を思い出す。 が、ブラダマンテはすねている。 どうせ、アルチーナが来たら、また、恋に落ちるという。 そこにオルランド登場。 「嵐の後に星は輝く」などと、慰めている。 Track5.激烈なリズムを持つ、 オルランドの有名なアリア。怒りを海の嵐に例えたもの。 黒ずくめに金色の飾りと兜をつけて格好良い。 これは有名なアリアで大拍手が起こっている。 次は、アルチーナの寝室のシーンである。 青い服を着た、騎士アストルフォ (バスのケヴィン・ランガン) が悶々としている。 Track6、「四季」の「春」のような、 明るい色調のアルチーナの親しみやすいアリア。 1つの愛では足りないと歌うもの。 まだ、ルッジェーロとブラダマンテが喧嘩しているが、 やがて仲直り。 Track7で、ルッジェーロがかわいらしいアリアを歌う。 Track8では、ブラダマンテもお返しのアリア。 込み上げる感じのもの。 もう一組のカップル、黄色い騎士メドーロと、 アンジェリカがオルランドを恐れている。 Track9.メドーロのアリア。 これも切々として悩ましい。 弦楽器奏者が舞台に上がってオブリガードを奏でている。 ヴィオラだろうか。画面の隅で小さくて見えない。 このオペラ、全体として奇妙な作品だと思っていたが、 次々に、特徴的なアリアが出て来て飽きさせない。 Track10は、純白に赤いマントのアンジェリカのアリア。 「星のように輝き」。 これは、明解ながら影も深く、 ヘンデルの作品のような、骨太の進行が爽快である。 オルランドが現れると、アンジェリカは、 扉の向こうの岩を指さし、 永遠の若さを保つ花を持って来て欲しいという。 オルランドは、モンスターがいるという岩の中に、 戦いを挑んで入って行くと、岩の一部が柵となって、 閉じ込めてしまう。 オルランドの呪詛に満ちたレチタティーボが、 ど迫力である。 が、学芸会的に、簡単に岩もどけてしまうので、 会場からは笑い声が起こっている。 が、アンジェリカへの怒りが込み上げていて怖い。 Track11は、メドーロとアンジェリカが、 乾杯をして結婚式を挙げていて、 喜びの合唱がわき起こる。 その一方で、アルチーナがルッジェーロを失って嘆いている。 Track12では、彼女のアリア。 切ないもので、古雅な舞曲調が旋回する。 「不誠実な星に支配され、愛の神は私には苦しみしかくれない。」 何だか、魔女の運命がかわいそうになってくる。 ルッジェーロもそう言っている。 しかし、その後は、恋人同士の世界に入って、 木にアンジェリカとメドーロの愛の落書きをしたりする。 「何ということ」とオルランドは、その書き込みを見て、 狂気に陥って行く。 「オルランドは死んだ」とか叫びだし、 「復讐だ」と声高に歌い、 ヘルメットを投げ捨て、剣を抜いて振り回している。 すると、急に泣き出し、かわいい顔をして見せる。 マリリン・ホーンは34年生まれなので、 このとき、もう50代のはずだが。 第3幕:アストルフォとルッジェーロが、オルランドを案じ、 Track13では、アストルフォの勇ましいアリア。 これも推進力があって、リズムも面白く、聴き応えあり。 ルッジェーロとブラダマンテが武装してアルチーナを待つ。 魔女は、天に頼んで無理と知り、 怪しい寺院で祈り始める。 オルガンの音などが効果的に使われている。 ブラダマンテは騎士アルダリコだと名乗り、 アルチーナに近づく。 そこにオルランドが現れ、狂気に駆られて、 身の上話を始め、運命を呪ったりする。 声色も変え、踊ったり、迫真のレチタティーボである。 そこに呑気にも明るいアンジェリカの声が響いて来る。 オルランドは乱暴につかみかかり、 訳の分からないことをまくし立てる。 Track14はアンジェリカが、 「あなたは無実、でも影がある。あなたの誠実は不公平」と、 優美なアリアを歌う。弦楽の伴奏が精妙だ。 Track15は、オルランドが一人、 暗いところで、深々と嘆息するようなアリア。 悲しいガンバだかの伴奏が付く。 しかし後半は、また狂気に駆られたようなレチタティーボとなる。 「アンジェリカは悪女だが、美しい」とか言いだし、 地獄の寺院の守番を打ち倒し、そこの神像を抱きかかえ、 アルチーナの神殿を破壊してしまう。 そして、眠くなったと言って眠ってしまう。 このあたり、すごいスペクタクルを期待していたが、 ままごとレベルで、迫力はホーンの熱唱にかかっている。 しかも、狂乱のアリアはない。 アルチーナが怒ってオルランドを殺そうとすると、 ルッジェーロが制する。 アストルフォがオルランドを起こす。 アルチーナは、「オルランドは正気に戻ったが、私は、」 と、半狂乱のアリアを歌う。 Track16では、アルチーナが去り、 オルランドは、急に、アンジェリカとメドーロを祝福する。 アストルフォが、「かしこい男は失敗から学ぶもの」と語ると、 喜びの重唱となって幕となる。 カーテンコールでは、オルランド、ルッジェーロ、 アルチーナの拍手が多く、アンジェリカ役は貰う花束が多い。 このオペラは、ヴィヴァルディのオペラの中では、 何故か、早くから知られており、 マリリン・ホーンのものも、このDVDとは別に、 指揮者のシモーネらと録音した、 1977年のLPがある。 DVDも、今回紹介したものの他に、 最近、スピノジの指揮したものが発売された。 このDVDの解説は、豪華ブックレット仕様なので、 このオペラについての情報が多く載せられている。 スピノジとフレデリック・デラメアという人が、 6つの部分からなる文章を掲載している。 「メタモルフォーゼズ オブ オルランド」 「ヴェネチアでの論戦」 「最初のオルランド」 「ヴィヴァルディの錬金術」 「騎士ランチェッティ」 (これは、相澤啓三氏がランチェッリと 書いていた歌手の事である。) 「7年間の反映」 (スピノジは7年前に、 同じオペラをCD録音していた。) ということで、まず、 「オルランド変容」という部分を読んで見よう。 「1727年11月9日に、検閲も済んで、 アントニオ・ヴィヴァルディの 『オルランド・フリオーソ』は、 同じ月の15日、 ヴェネチアのサンタンジェロ劇場で初演された。 赤毛の司祭の新しいオペラの公演期間は短いものだった。 12月10日からは、 同じ年の2月、同じ劇場で公演して成功を収めた、 『ファルナーチェ』の再演に置き換えられた。 秋のシーズンには普通、1演目しかなく、 2つめのオペラが演じられたことは、 最初のものが失敗だったということだ。 『オルランド』の初演から2、3日して、 ヴェネチアから出された手紙の中で、 コンティ神父は、友人のクリュス伯爵夫人に、 『我々のオペラが始まりましたが、 特に書くことはありません』と報告している。 この年のはじめに『ファルナーチェ』や、 その音楽について、 『崇高さと優美さにおいて、素晴らしく多彩な音色だった』 と書いて情熱を持って熱狂していた、 このオペラおたくの意見であるから、 ヴィヴァルディの挫折を意味するものであろう。 確かに、コンティのこの文章は、 ヴィヴァルディの『オルランド』ではなく、 10月25日から、 サン・カッシアーノ劇場で演じられれていた、 ジョゼッペ・ボンニヴェンティの『バルタリド』か、 あるいは、11月8日から、 サン・モイーゼ劇場で演じられていた、 ヴァイオリニスト、ジョヴァンニ・リアリの、 『勇敢な王国』のことを言っているのかもしれない。 ひょっとしたら、サンタンジェロでのオペラを、 彼は、まだ、観に行ってなかったかもしれない。 これらの仮説もありうるが、 サン・ジョヴァンニ・グリソストモ劇場での、 ニコラ・ポルポラの『アリアンナとテーセウス』を 賞賛しているにもかかわらず、 神父の手紙に、その後も、 『オルランド』に対する言及がないことから、 信憑性は低いと考えられる。 多くのヴェネチアの聴衆と同様に、 神父は、ヴィヴァルディのペンから生まれた、 最も型破りなオペラ作品に困惑したと、 考えたほうが良いように思われる。 台本には『オルランド』とあり、 自筆譜では、『オルランド・フリオーソ』と書かれた、 この作品は、『四季』の作曲家の、 劇場音楽の傑作として認識されるのに、 250年も待たなければならなかった。」 以上、どこが、メタモルフォーゼズなのか、 よく分からなかった。 とにかく、この作品はうまく行かなかったようなのである。 そして、この作品が、ヴィヴァルディのオペラ中の、 単なる1つである、という見方が出来ないことを、 下記文章が補足する感じになっている。 次に来る、「ヴェネチアでの論争」という部分にこうある。 「ヴィヴァルディにとって、1727年という年は、 2年前からのヴェネチアでの劇場界再征服の絶頂期であった。 保守的な環境との衝突の後、 4年間の芸術的亡命を経て、 作曲家は、周到に1725年秋以降の再起を準備した。 作曲家と興行師の機能をまとめて、 オペラの音楽監督というタイトルを誇示し、 彼は再び、自らがオペラのキャリアを始めた、 サンタンジェロ劇場の棟梁となった。 ジョヴァンニ・ポルタや トマゾ・アルビノーニの勢力を飛び越えて、 『赤毛の司祭』は、彼の不在中に、 保守派が連合させることができなかった ヴェネチア・オペラ派を組織化した。 このように、彼の責務は、 彼がヴェネチアを離れていた間に押し寄せた 外国勢との新しい競争になった。 ヨーロッパの音楽シーンを総なめにしつつあった、 ナポリ音楽がヴェネチアを征服し始めており、 ヴィンチやポルポラの作品は、 すでに、街の主要な劇場、 サン・ジョヴァンニ・グリソストーモの演目を占拠していた。 ナポリはまさにヴェネチアを征服する過程にあった。 1727年の秋、このナポリの波頭はいっそう高まり、 『オルランド・フリオーソ』は、それゆえに、 これらのスタイルの衝突の仕返しの兵器として、 作曲家は考えていた。」 ということで、この作品が、 ヴェネチア楽派の起死回生の一撃になるはずであったようだ。 ここからが少し、ややこしくなる。 ヴィヴァルディには、 「オルランド・フリオーソ」という作品が、 実は、もう1つあったようなのである。 「最初のオルランド」という文章が来る。 「彼が採用した作戦は、ヴェネチア音楽の基本要素を、 新しい観点で賛美することであった。 かつて書かれた、14年前にサンタンジェロの聴衆に披露し、 40回以上も繰り返されて記憶すべき成功を収めた、 いわゆる最初の『オルランド・フリオーソ』に立ち返り、 その大胆で個性的な表現に根ざした。 それは、1713年秋に最初のオルランドが、 ヴェネチアにおける、 サンタンジェロでの作曲家、興行師として ヴィヴァルディが、オペラ・キャリアを 公式に開始した時点を記すものであるゆえに、 象徴的なものでもあった。 フェラーラの詩人、 グラツィオ・ブラッチョリの台本による このオリジナルの作品は、当時、 若いボローニャの作曲家、 ジョヴァンニ・アルベルト・リストリの作品とされていた。 しかし、現在では、 単独の仕事ではないかもしれないが、 ヴィヴァルディのものとされ、 いずれにせよ、 サンタンジェロで翌年改訂上演された時には、 彼が全面的な責任を負っていた。 リストリのものとされる音楽と、 同時代者ヴィヴァルディの作品の、 スタイルの上で酷似は、 『赤毛の司祭』とその父親の筆跡が、 オリジナル原稿の推敲のところで見られることと共に、 これらの観点で、明解な理由を提供する。 これらはさらに2つの基本的考え方によっても支持される。 まず第1に、ヴィヴァルディが、無名の若輩に、 こんな重要なシーズンを任せ、 責任を放棄するとは思えないし、 さらに、とりわけ、リストリが、 操り人形でなく、いくらかの部分を担当した協業者とすれば、 戦略的な理由から、絶対に、実はそれが父親だったなどと、 推測させるわけにはいかなかった。 この1713年から14年の謎の『オルランド・フリオーソ』は、 最初の二幕しか残っておらず、 そもそも、ヴェネチアの劇場の伝統と、 当時流行していた最新のヴィジョンの融合で、 ヴィヴァルディはこの分野の最も大胆な代表であった。 劇場キャリアに進出する時点での、 この作曲家特有の実験精神は、 ブラッチョリの見事な台本の非常に劇的に豊かさに 刺激され促進されて、 音楽劇の慣習的な体系を文字通り打ち砕いた。 カヴァティーナ、アリオーソ、登場アリアを復活させ、 ダカーポアリアの総合のような音楽形式は、 すこしずつ省かれ、 特に騎士の狂気の部分で、 モノローグシーンの拡張してレチタティーボとし、 作曲家と台本作者は、かつての音楽劇の姿を再現している。 交互に現れるレチタティーボとアリアは、 様々な形のかすかに流動的なモノクロームとなり、 ここでアクションが展開され、 登場人物を駆り立てる心情が、 声と通奏低音の錬金術によって探究される。 17世紀の劇場への賛嘆であり、 大胆で、時代遅れではなく、 アリアとオーケストレーションのスタイルとしては まさしくヴィヴァルディが 18世紀初頭のヴェネチアに吹き込んだ新風を表していた。 1714年の再演の後、この作品は中欧でも成功を収めた。」 このように、「オルランド・フリオーソ」には、 2つ以上の版があって、その最初の版は、 ヴィヴァルディのもくろみ通り、新風を孕み、 快進撃を遂げたということである。 しかも、それは、ヴェネチアの伝統に、 深く根ざすものであったと考えられる。 次いで、「ヴィヴァルディの錬金術」という部分には、 この作曲家が、この作品に盛り込んだ工夫が書かれている。 「14年後、昔のモデルから新しいスコアを仕上げた。 1727年版は、フレームワークや大きな劇的シーンを保ち、 広く1714年版を基にしているが、 元の作品と混同することは困難である。 むしろ、新作は、広範囲の改作を示し、 結果として作品に力強いオリジナリティを与えた。 ここに、誰もが真似できないような、 作曲家本人でさえ、この後の作品では 出来なかったような独自の配合で、 2世紀にわたるヴェネチアの劇場が、 混ぜ合わされている。 1727年の改訂は何よりも、 全てのアリアの置き換えによって、 気概を示している。 声の音域の新しい配分によって、 この決定はなされているが、 何よりも、最初のオルランドから、 ヴィヴァルディの声楽の書法は進化している。 最初のものの、 短い導入のリトルネッロと控えめな技巧を持った、 簡潔なアリアとは、 成熟したヴィヴァルディ・オペラの充実を示すものとなり、 そのメロディの魅力、そのきらきらした器楽の色彩、 豊かな弦楽の伴奏を伴う、 躍動するリズムのヴァイタリティは、 しばしば1713年版より複雑で変化に富み、 とりわけ、輝かしい声楽の技巧は、 決して、それに服従することなく、 花火のような効果で重要な側面を見せる。 しかし、改作は、 特にオルランドの狂気を示す、 偉大な独白シーンの堂々たる書き直しによって、 ドラマの核心にも迫っている。 改作は、タイトルロールの声域の変更 (1713-4年版はバス、1727年版コントラルト) によって、無理になされたものではなく、 ヴィヴァルディのパートに対する 特定の創造的願望を示すものである。」 いかに、最初のオルランドから変わっているかが分かったが、 まさか、主人公の声域まで変わっているとは知らなかった。 今回は、ここまでで字数オーバーとなった。 得られた事:「ヴィヴァルディのオペラでも早くから知られた『オルランド・フリオーソ』は、作曲家自身、何度も改作したヴェネチア・オペラのクライマックスであった。」 |
個人的経験:ロッシーニのオペラ 「タンクレーディ」は、 200年前の欧州を、 席巻したにも関わらず、 その後、急速に忘れられ、 二十世紀も残り少なくなって、 ようやく、再評価された。 この素晴らしい作品の 再発見に力あったのが、 マリリン・ホーンである。 ありがたい事に、この傑作を、 この偉大な歌手が、1983年に録音したCDを、 我々は手にすることが出来る。 しかも、ライブである。 聴衆が、真剣に聴き入り、 熱狂的な拍手で応えている様子が、 手に取るように分かる、生々しい記録でもある。 黒を基調にした渋いデザインは、 何だかシンプルかつストレートで強烈だ。 例えば、相澤啓三という評論家が書いた、 「オペラの快楽」(1992、JICC出版局)では、 ロッシーニのオペラ・セリアの代表作として、 「セミラーミデ」、「マホメット二世」などと共に、 この作品を挙げ、さらに、ホーンのCDを挙げ、 「圧巻」と書いている。 「ホーンのリズム感溢れる華やかで生き生きした コロラトゥーラはその堂々たる騎士振りを目にすれば ますます圧倒的な迫力を発揮する」といって、 ホーンの舞台を映像記録したものがあることも示唆しているが、 これはどうすれば手に入るのであろうか。 それはともかく、かつては、 CBSソニーから国内盤も出ていたこのCD、 なかなか再発売されないので、 中古で見つけて来たのだが、 私の入手したものは、 1985年のオーストリア盤である。 イタリアのFONIT CETRAが、 CBSと共同制作したと書かれており、 権利関係がややこしいので、 再発売されないのだろうかと考えた。 アメナイーデにはレッラ・クベルリが入り、 アルジーリオは、エルネスト・パラッチオが歌っている。 ラ・フェニーチェ劇場のオーケストラを、 ヴァイケルトが振っている。 マリリン・ホーンと言えば、 文字通り警報のような声を連想していたが、 もっと、ひしゃげたような感じで、 高く舞い上がるような声ではない。 それが第一印象。 登場の「おお祖国よ」や、 アリアの「ディ・タンティ・パルピティ」でも、 上から圧力がかかっているような感じで、 狭い隙間から絞り出されるような質感だ。 声の質に微妙な陰影を持っていることもあり、 その技巧による声の密度が、 きわめて凝集された感じを与える。 登場時はあまりそうした事も感じなかったが、 だんだん、物語が進行し、声にも熱を帯びて来る。 特に、私は、アメナイーデとの二重唱での、 纏綿たる濃密な声の絡まり合いには、 我を忘れて聴き入ってしまった感じである。 クベルリは、コッソットがタンクレーディを歌った、 フェッロ(フェルロ)指揮のものでも、 同じ役柄を担当していた。 コッソット盤は、スタジオ録音だったのだろうか、 それに比べると、何だか火照ったような緊張感がみなぎり、 この録音、そんな意味でも鬼気迫って圧巻である。 コッソットのものは、もっと古典的な明晰さを持っていた。 序曲の序奏からして、フェッロの指揮は、 落ち着いて粛々と事を運んでいる感じだが、 こちらのヴァイケルトは、叩き付けるような気迫がある。 リズムの刻みも、アタックが激しく、 このオペラの内容にふさわしく深刻な感じである。 スワロフスキー門下で、オーストリアの人らしい。 この序曲について、スタンダールは、 「騎士タンクレーディの名にふさわしい音楽」として、 「優美と繊細に満ちている」と書いた。 この序曲は、しかし、「試金石」の転用品である。 さて、スタンダールの論評に従って、 このCDを少し聴き進んでみよう。 この文豪にして音楽評論家は、 序曲には感心しているが、 続く合唱については、 耳に快いが、「力強さ」には不足する、として、 中世の騎士の感じがしないことを指摘している。 「血気盛んな中世の感じがするだろうか」 と書いているが、当時の感覚も、 我々とそう変わらなかったのだろうか。 これは私も感じる点ではある。 が、このCDの演奏は、 かなり力が入っているせいか、 他の演奏よりも血気盛んな感じがする。 続く、アメナイーデ登場のシーンについては、 スタンダールは共感していて、 「騎士道が華やかな時代の若い王女にふさわしい、 高貴で飾り気のない優雅さを、 彼以前の音楽がこれほど完璧に表現したためしはない」 と書いている。 このCDの演奏は、きびきびとして、 緊張感を保ちながら進んで行く。 しかし、このフランス人はうるさいのである。 続く、アメナイーデのカヴァティーナ、 「なんと快くわたしの心に」は、 装飾音がこぎれいすぎるだの、 憂愁に欠けるだの、小姑のようにうるさい。 が、スタンダールが言う、 「追放されて今はいない恋人を想うのだから」 という観点からは、 十分、納得できる見解である。 しかも、スタンダールは、さらに、 悲しい音楽だとお客が退屈するとか、 憂愁を伴う愛情を描くには若すぎた、 という、分析まで行っているのである。 このCD、クベルリの歌は、 よく通る美しい声で、ほれぼれする。 しかし、「悲しい音楽を書くとお客が退屈する」 という意見はいかがだろうか。 明らかに、フェラーラ版では失敗する、 という当時の雰囲気を表していないだろうか。 スタンダールは反対に、 タンクレーディ登場のシーンには、 好意を持っていたようである。 到着シーンを、 「オーケストラは『劇的なハーモニー』でもって 壮大に盛り上げる」と書いており、 続く、「おお祖国よ」のレチタティーボを、 「崇高で心を打つ」と書いている。 先にも書いたように、 このCDでのホーンの歌は、 英雄らしく高らかに舞い上がるものではなく、 押し殺したように、渋く押し出される歌である。 スタンダールは、アリアなどに使われるフルートを、 「悲しみのまじった喜びの表現に合っている」 と書くばかりか、 「絵の中で着衣の大きな襞が ウルトラマリンで表現された場合に似ている」 と妄想をふくらませている。 ホーンの歌うアリアは、声の質からして、 派手な感じはしないのだが、 小刻みに装飾を神経を使って施しており、 すこし、危なっかしい感じすらするが、 これがロッシーニらしさという事であろうか。 コッソットのCDでは、 この「ディ・タンティ・パルピティ」は、 朗々と滑らかに歌われ、 まるで、歌のお姉さんのように聞こえ、 ホーンのギアチェンジを繰り返しながらの、 アリアとは別物のように思えて来た。 だから、コッソット盤の解説を書いた、 高崎保男氏は、 「ヴァレンティーニやホーンほど華麗な カント・フィオリートを用いていない」と書き、 相澤啓三氏は、 「コッソットはロッシーニ歌いではない」 と書いているのであろう。 確かにここまで聴いて来ると、 何となく、コッソットの歌では、 炭酸が抜けたロッシーニのように思う聞き手がいても、 おかしくはないと思った。 聴き所である、アメナイーデと、 タンクレーディの二重唱 「貴方を取り巻くこの大気は」 (CD1のTrack12)などでも、 ホーンのCDで、高揚感を持って、 凝集する音楽に眩惑されたのは、 こうした点で大きな違いがあったのである。 声が持っているエネルギーの密度が違う感じである。 3分すぎの、「私には何と辛いことだろう」なども、 糸と糸の寄り合わせ方が全く異なる。 ジグザグのラインが織り合わされている感じが、 ホーンのCDでは感じられ、 コッソットのものでは、 二つの声のラインが並列で並んでいるだけである。 さて、このホーンのCDは、3枚組かつ箱入り仕様で、 かさばる割には、解説にはたいしたことは書かれていない。 しかし、聞き所をびしっと書き連ねていただき、 そのあたりは、かなり具体的なので嬉しかった。 シカゴ大学のフィリップ・ゴッセットが書いている。 「1813年2月6日、ヴェネチアの、 ラ・フェニーチェ劇場で初演された『タンクレーディ』は、 ヨーロッパに旋風を巻き起こした。 スタンダールは、このオペラをロッシーニの、 最高の到達点とした。 この作品の人気は、半世紀後のヴァーグナーが、 『マイスタージンガー』の仕立屋の合唱に、 タンクレーディの伝説のカヴァティーナ、 『ディ・タンティ・パルピティ』を選ばずにいられなかった。 『タンクレーディ』は、 1810年頃のイタリア・オペラの 伝統の枠から、決定的に出てはいなかった。 それが、実際に革命的になったのは、 ロッシーニが、初演の数ヶ月後、 フェラーラで再演させた時に、 悲劇的フィナーレを加えたからであるが、 この版での初演後、彼はオリジナルの、 ハッピーエンドに戻してしまった。 伝統を破るアリオーソは、 ヴォルテールの原作の劇に従ったもので、 アメナイーデの無実を知りながら、 静かな弦楽の伴奏を伴って、 タンクレーディは傷によって死ぬものである。 フェラーラの聴衆は、 この例外的なエンディングに当惑し、 もともとのエンディングにすぐに戻された。 10年にもならないが、 イタリア統一運動の愛国者であって、 文学者であり、タンクレーディを最初に歌った、 アデライーデ・マラノッテの愛人でもあった、 ルイジ・レッキの後継者が、 レッキの書類の中から、ロッシーニの自筆譜を発見した。」 このあたりの話は、これまでも読んで来た通りである。 「様々な意味で『タンクレーディ』は、 ロッシーニの同時代者に衝撃を与えた。 音楽的、ドラマ的な効果を導く、 確信と、正確さ 目的に向かう絶対的明晰さを、 彼等は、この作品の中に見た。 オーケストレーションは簡素で、 時に室内楽的で、楽器の効果が正確に計算されている。 セッコ・レチタティーボがなおも、 形式的にオペラを分割しているが、 各ナンバーは緊密で、内容的にも、 優美な叙情と強いドラマティックなアクションが、 巧妙にバランスされている。 メロディラインは、声の機敏さを示しつつ、 純粋な美しさをブレンドしている。 他の作曲家たちも同様の方向に向かっていたが、 これらの性向と、 新しいイタリア・オペラが新しい力を得ることとなる 確立されたモデルが、 魔法のように調和したのが、 この『タンクレーディ』であった。」 これまでも様々な解説を読んできたが、 このように、タンクレーディが決定的な傑作であることを、 ここまで明記したものはなかったのではないか。 「『タンクレーディ』は、古典的な純粋さと バランスを持ち、声がその効果を発揮しながら、 すべてを圧倒することはない。 誰も予想しないような状況で、 素晴らしく感動的な瞬間が訪れる。」 このように書きながら、 より具体的な聞き所が紹介されていく。 あとで使いやすいように、番号を付けて見てみよう。 聴き所1. 「第2幕で騎士たちは、 タンクレーディが オルバッツァーノを倒したことを デリケートな合唱、 『人々よ勝利者に喝采を』 (CD3のTrack4)で祝う。 まずそれは、木管だけで始まり、 群衆が集まって来ることを暗示して、 全オーケストラが入って来る。 タンクレーディが入って来ると、 ムードが変わる。 彼は、弦楽の伴奏に乗って、 愛らしいフレーズ『栄光への賛美は』で、 複雑な心情を歌う。 この進行は彼を勝利へと推し進めるが、 これは一面でしかなく、もっと精緻なもので、 誇張なしにオペラの世界で、 劇的に音楽的な真実を扱っている。」 聴き所2-1. 「同様に感動的なのは、 第1幕のフィナーレのアンダンテ (CD2のTrack6)で、 アメナイーデに対しての、 非難の合唱が小さくなる中、 四つの独唱者と木管が和音を保持している。 そして、同じ和音が、 デリケートなアンダンテ、 オーボエ、クラリネットと、 二つのバスーンで軽く伴奏された、 独唱者による四重唱によって、 真実のパトスのパッセージを導く。」 「多くの細部が、このフィナーレでは、 賞賛に値する。」 とあるように、このフィナーレは聴き所満載である。 聴き所2-2. 「ロッシーニによって、その音色が、 少しずつ変えられて繰り返される オーケストラのフレーズと共に、 アメナイーデの激しい嘆願(CD2のTrack5)。」 聴き所2-3. 「最後のストレッタに先立つのは、 突然、スタッカートの弦楽と、 オーボエとクラリネットの虚ろな響きで伴奏され、 (バスはピッツィカート)関係短調で現れる、 美しい『これまでに、こんな恐ろしい苦痛を』 (CD2のTrack6の4分あたり)である。」 この部分、アメナイーデとタンクレーディのデュオに続き、 アルジーリオとオルバッツァーノのデュオが現れ、 素晴らしい緊張感で聴かせるが、 ピッツィカートの効果は強烈である。 また、クラリネットたちは、 最初のデュオでは現れない。 「異常なほどの『タンクレーディ』の プリマドンナの離れ業をもって、 オペラ全体を貫く驚嘆すべき、 ロッシーニの芸術性を見失ってはならない。 また、ロッシーニが、ベル・カントを、 この最初の成熟したオペラ・セリアの中心に 持って来なかった、というのも間違いである。 『タンクレーディ』は、 リアリスティックなドラマではなく、 そう判断するのも間違っている。 二つの長いデュエットをもってしても、 アメナイーデが、恋人に、 無実を説明できないことは、 論理的に受け入れられるものではない。 (この問題は、ヴォルテールからある。) しかし、彼のオペラでは、 特にこれらの二重唱では、 緊密なドラマティックなロジックを追い求めてはいない。 彼は、自身の音楽で、 効果的に息を吹き込めるキャラクターを求め、 そのように、アメナイーデの苦しみを描き、 恋人の騎士のほろ苦い感情を描いた。 聴き所3-1と3-2. 「彼等のデュエットは、このオペラのハイライトに属する。」 (CD1のTrack12、CD3のTrack7、8)。 前者については、コッソット盤と先に比較して書いたが、 また、私が、このホーンのCDで最初に陶酔したのも、 ここであった事を繰り返しておきたい。 ライブのせいかもしれないが、 ジグザグに織り合わされた声の織物の見事さもあって、 ものすごい高揚感である。 クベルリの声が落ち着いて来たせいか、 ホーンとの二重唱が、妙に均質な織物に仕上がっており、 その質感が妙に上質に思えるのである。 後者も、前半は高揚感とは異なる切り口であろうが、 沈潜するような幻想的な無重力感がぐっと来る。 後半は、解放的な表現となるが、歌が進むに連れ、 凝集力が増してすごい迫力になっている。 「このスコアの最大の栄光は、 確かに、第2幕の、 アメナイーデとタンクレーディの 二つのグランシェーナである。」 とあるから、これらもそれぞれ聴き所であろう。 聴き所4. 「アメナイーデの牢獄のシーンは、 ロッシーニが書いた最も深い音楽に思え、 特に、オープニングのシェーナ (その精巧な感動的なオーケストラの前奏によって)、 (CD2のTrack13) オープニングのカヴァティーナ、 『いいえ、死は決してそんなに』 (CD2のTrack14)で、 この中で、彼女は、 恋人を裏切ることよりも、むしろ死を願う。 ロッシーニは、メロディを、 イングリッシュ・ホルンの強烈な独奏で伴奏させた。」 ひしひしと迫り来る死をぞくぞくと暗示し、 冷たい牢獄の湿っぽい空気まで感じさせる、 素晴らしい描写となっている。 このCDのクベルリの澄んだ声も、 緊張感を孕んで、空気を切り裂いて行く。 しかし、これより5年早い時期に録音された、 同じクベルリが歌ったもの(フェッロ盤)の方が、 さすがに声そのものの瑞々しさでは有利である。 聴き所5. 「しかし、素晴らしいのは他でもない。 素晴らしいのはタンクレーディの、 『グランシェーナ』である。 もっとも単純にして、 その英雄の感情に深く探りを入れ、 ソラミールを確固と(華々しく)戦場で倒した後、 くっきりと忘れがたいメロディを与えた。」 (CD3のTrack22.) 私は、このフィナーレが、 確かに実験的であることは認めるが、 そんなに感動的とも思えないのだが、 マーラーの交響曲のような、 壮大な日没のようなものを期待しすぎであろうか。 「これら二つのソロのシーンで、 誰でも、このオペラが当時のヨーロッパの 音楽シーンに与えた威力を理解することが出来る。」 「二つの美しいアリアにもかかわらず (内的な葛藤の後、娘を断ずるシーンが特に忘れがたい 第2幕のオープニング)、 アルジーリオは、いくぶん、造形に欠ける。」 聴き所6. 「彼の輝かしいタンクレーディとの二重唱 (CD2のTrack17、18)は、 しかし、このスタイルの好例で、 ベッリーニが『清教徒』の『ラッパの響き』が、 その高まった一例となっている。」 アルジーリオは、このホーンのCDでは、 少し存在感がないような気もする。 それを補って余りあるのが、 マリリン・ホーンの声の超絶的な装飾で、 天高く龍のように舞い上がっている。 「これらの音楽では、声楽の技巧は、 単に、それに注意を惹き付けるためだけではなく、 感情表出に使われている。 ロッシーニがオリジナルで書いた音符以外にも、 一緒に仕事をした歌手たちのために、 カデンツァや変奏を書いたのは事実である。 現代の歌い手が、ロッシーニの装飾をそのまま歌うか、 自身の版を歌うかに関わらず、 それは感情表出でなければならない。 それが適切に適用された時、 重要で絶対に権威的な次元を、 ロッシーニのスコアに付け加えたことになる。」 このような事まで考えて、このCDの演奏者たちは、 公演に臨んでいるのであろうか。 「後年、ロッシーニの音楽は、 『湖上の美人』の初期ロマン主義や、 『セミラーミデ』の新古典主義の壮大さ、 『ウィリアム・テル』の歴史主義に、 彼を誘う。 これら全てを通じ、 『タンクレーディ』の古典芸術へのノスタルジアは、 スタンダールの言う、 『処女の素直さ』の一例である。 『タンクレーディ』は、 『青春』、『感傷』、『活力』を示しており、 ロッシーニはこうした前代未踏の境地を、 再び完全に捉えることは出来なかった。」 聴き所は、結局、登場シーン以外の、 タンクレーディとアメナイーデの重唱と、 大きなソロの部分ということになりそうだ。 得られた事:「ロッシーニの声の装飾によって、デュエットの高まりが上質な織物のような得も言われぬ効果を発揮する。」 「ロッシーニの時代、悲しい音楽は退屈だと思われていた。」 |
個人的経験:スタンダールは、 その著書「ロッシーニ伝」 の第一章「生い立ち」に続き、 第二章として、「タンクレーディ」 を持って来ている。 この章は、冒頭から、この作品が、 ヨーロッパ中で知られている事を記し、 読者の方々は、すでに、 みんなこれを知っているだろう、 などとも書いている。 これくらいに、この作品は成功を収め、 スタンダールの文章でも、 これが、絶妙なバランスの上に 成り立っていることが強調されている。 彼は、「泥棒かささぎ」を引き合いに出し、 そちらは、オーケストラがうるさすぎで、 もっと歌を聴きたくなるとしながら、 「ロッシーニが『タンクレーディ』の 完璧な楽譜を書いたときには、 この欠点を免れていた。 豊富と過剰のちょうど中庸を行ったのだ」 と書いた。 「美を隠さずに装い、損なわず、 ごてごてした余分な飾りを付けなかった。 騒々しすぎる音楽や、 逆に単純すぎる音楽に退屈したときは、 いつでも『タンクレーディ』の うっとりさせる作風に戻るべきだ。」 (みすず書房、山辺雅彦訳) という傾倒ぶりである。 さらに、この本では、 当時の聴衆の意見も、 スタンダールが共感したものは、 ありがたいことに、 引き合いに出されている。 「ロッシーニの音楽は、 大胆なのが最も特徴的で、 性格もそのとおりです。 ところが、『泥棒かささぎ』や 『セビリャの理髪師』を聴けば、 その大胆さに度肝を抜かされ 夢中にさせられるのに反し、 『タンクレーディ』には そういう個所は少しも見あたりません。 ひたすら簡素で純粋な音楽が流れるばかりで、 飾りっ気はこれっぽっちもない。 無邪気そのものの天才といったところでして、 こういう言い方が許されるなら、 あれはまだ生娘の天才です。 『タンクレーディ』には ぞっこん惚れこんでいるので、 何曲かのアリアに見られる どことなく古めかしい感じまで 好きなのです。」(ゲラルディの意見) 「完璧な楽譜」、「純粋な音楽」。 ここに書かれていることは、 ロッシーニが数々のヒットを飛ばしていた時代の 代表的な意見なのであろう。 また、この本には、 「これ以上よく歌われたアリア、 これ以上、様々な土地で歌われたアリアも 他にあるまい」として、 「リゾット・アリア」として知られる、 「多くの苦しみの後で」成立のエピソードが、 書かれている。 ロッシーニは、まず、ヴェネチアの公演用に、 主役タンクレーディが登場するときのために 大アリアを書いたが、 美貌と才能の絶頂にいた歌手から、 「気にくわない」と言われたとのこと。 ロッシーニは、主人公登場で、 やじられでもしたら台無しになると、 物思いに沈みながら安宿に帰ったところ、 一つのアイデアが閃いた、というのである。 この本では「リゾット・アリア」とは書かず、 「米のアリア」と書いている。 ロンバルディア地方では、 夕食は必ず米の料理で始まるが、 あまり煮すぎないように4分前に、 料理人が「米を料理いたしましょうか」と 聴くのだそうだ。 「ロッシーニが絶望して戻って来ると、 ボーイはいつもの質問をした。 米が火にかけられる。 できあがる前に、ロッシーニはもうアリア、 『多くの苦しみの後で(Di tanti Palpiti)』 を書き上げていた。・・・ この見事なカンティレーナについては、 どう言えばよいものか。・・・ それにヨーロッパでまだ知らない人がいるだろうか。」 このように、全ヨーロッパで 知られたアリアであるから、 様々な作曲家が、 「ディ・タンティ・パルピティ」の メロディにあやかった作品を残している。 例えば、ヴァイオリンの鬼神パガニーニも、 変奏曲を使っている。 今回聴いた、西シベリア出身のヴァイオリニスト、 ヴェンゲーロフのCDでは、 何と、「イ・パルピティ(I Palpiti)作品13」 と書かれている。 多くの場合、この曲は、 「『こんなに胸さわぎが』による変奏曲」と呼ばれているが、 単に「パルピティ」! どうやら、この単語は、「苦しみ」になったり、 「胸さわぎ」になったりしているようだ。 「鼓動」という訳も出て来る。 これまで見て来たように、このアリアは、 タンクレーディが追放された祖国に潜入し、 恋人アメナイーデに会う期待を、 「大いなる不安と苦しみの後に、 恋人よ、君から報われると期待しているのだ」 と、歌い上げるものであるから、 「胸さわぎ」という感じではない。 祖国追放の「苦しみ」だと思われる。 が、曲想からしても、「苦しみ」という感じはない。 「胸さわぎ」かどうかも疑わしいが、 翻訳としての情緒性からすれば、 「胸さわぎ」がそれっぽい。 さて、このCDについて書いておくと、 近年、腕の故障で引退宣言も伝えられる、 1974年生まれの名手が、93年、 つまり未成年のときに、 ベルリンで録音したものである。 テルデック・レーベルへの録音で、 ピアノのゴランを共演者にしての、 ヴィルトゥオーゾ作品集である。 多くが数分程度で終わる小品で、 12曲が収められているが、 この「苦しみ」作品13だけが、 10分を越える規模。 しかし、スタンダールが、 騒々しくもなく、単純すぎもしない、 「完璧な楽譜」から生まれた音楽にしては、 何と、複雑な大曲であろうか。 このヴェンゲーロフというヴァイオリニストは、 渡辺和彦という辛口批評で有名な音楽評論家を、 2000年の来日公演で、 「口をきけなかった」ほどに、 圧倒しつくしたことで知られる名手である。 この人の記事によると、 その十年前の15歳だかの年での来日公演で、 このパガニーニを演奏したとあり、 さらに、このCDについても、 音楽之友社の「ヴァイオリン/チェロの名曲名演奏」で、 「後の世まで残るだろう」と激賞している。 Track1.と3.がヴィエニャフスキで、 「華麗なるポロネーズ第一番」と「伝説曲」が聴ける。 私は、ヴィエニャフスキの濃厚ロマンティックが好きで、 特に「伝説曲」の中間部の濃厚メロディには、 常に胸を熱くしてしまうが、 この演奏、ぎゅうぎゅうと涙を絞り出される感じ。 19歳という年齢で、 このようなコブシが効かせられるのだなあ、 などと妙に関心してしまった。 「ポロネーズ」の方も、切れ味が鋭く、 それでいて柔らかい美感にも優れ、 恐ろしい若者であったことが分かる。 先の渡辺氏が、思わず拍手したと、 などと書いていることも肯ける。 曲の隅々にまで、 オリンピック競技で問われるような完成度が光っている。 Track4.、8.と10.は、 クライスラーで、「美しきロスマリン」、 「中国の太鼓」と「ウィーン奇想曲」。 このあたりになると、 別にヴェンゲーロフで聴く必要は感じないが、 それでも、様々な音色で彩られた クライスラーという感じで聴かせる。 Track5.のブロッホ「ニグン」になると、 この奏者の集中力と情念のようなものが圧倒的である。 それから、スタミナというべきであろうか。 扇情的な表現が、これでもかこれでもかと、 聴く者の神経に迫って来る。 中間部の祈りのような表現もたいへん激しい。 Track6.と7.は、チャイコフスキー。 「懐かしい土地の思い出」から、 「スケルツォ」と「メロディ」。 凝集力の高い作品の後、 これらのいくぶん伸びやかな作品を挟んでくれて、 とても選曲配置も良いCDだ。 Track9.は、メシアンの「主題と変奏」。 作曲家の24歳の作品で、 若くて活きが良く、神秘的でありながら、 晦渋でないのが嬉しい。 ヴェンゲーロフのような演奏では、 とにかく音が輝かしく、あれよあれよと、 7分半を一気に聞かされてしまう。 Track11.はサラサーテの「バスク奇想曲」。 いきなり情熱的なピアノが意気高揚と発動し、 ヴァイオリンが同様の激しさで入って来る。 この曲に関しても、先の渡辺和彦氏が、 このCDの演奏を賞賛している。 様々なヴァイオリンの技巧による変奏曲といった感じである。 特に左手のピッツィカートのきらきら感に目が眩む。 ヴェンゲーロフは、このような曲では、 その完成度と集中力でオーラを発する。 Track12.バッツィーニの「妖精の踊り」。 ものすごい快速で、かつ鋼鉄の正確さといった趣き。 ということで、このCDの解説は、 Cristian Kuhntという人が書いている。 「過去においても、好都合な環境の影響なくしては、 ヴァイオリニストは、ヴィルトゥオーゾとしての、 輝かしいキャリアを望むことは出来なかった。 音楽に興味のある両親がいて、 まだ初期の段階にある幼い才能に、 この芸術の喜びを伝えることが好ましい。 8歳くらいで、小さなコンクールで、 1位を取って、 サラサーテやヴィエニャフスキ、 クライスラーのように、 例えば、パリのコンセルヴァトワールの マスタークラスに入る資格を得るべきである。」 めったにヴァイオリンの名手になることは出来ない、 という論調で始まり、そこから、 いったん、名手になるとどうなるかが、 こんな風に語られる。 「または、二、三時間の指導の後、 パガニーニがそうだったように、 独学で楽器を学び、 地方のオーケストラと共演するとか。 もっとマイナーな開催地は言うに及ばず、 パリ、ロンドン、ミラノ、ベルリンや、 ヴィーン、ブダペスト、モスクワのような、 コンサートの場に、トランクいっぱいに詰めて、 出かけて行くことになる。 さらに、ぎっちょで、 不気味な外見であれば、 その芸風も合わせて、 悪魔的で特殊な存在とされ、 成功は請け合いだろう。 彼等は、すべてが重なって、 『魔術師』、『魔法使い』、 『悪魔』、『天使』となる。 演奏会はスペクタクルとなり、 厳格な芸術の楽しみと娯楽の境が曖昧になる。 聴衆は熱狂にさらわれる。 1829年にベルリンで開かれた パガニーニの演奏会の後、 『Vossische Zeitung』紙の批評家は、 こんな事を書いて、そのイメージを伝えている。 『公衆が加わり出し、 (こう表現するしかないのだが) 弓によるため息や息遣いが、 1000の喉からの、 かすかな呟きによって伴奏された・・。 淑女たちは喝采を見せようと、 桟敷席の手すりから乗り出し、 男たちは、椅子の上に登った・・。』」 何だかよく分からない解説だが、 下記のように、こうしたヴァイオリニストたちが、 作曲活動をも行って来たことが語られる。 「その演奏会曲目を豊かにするために、 多くのヴィルトゥオーゾが独自の作品を作曲したが、 当然、その多くは、その楽器のためのものだった。 ある場合は、しかし、 バッツィーニのオペラのように、 あるいはクライスラーのオペレッタのように、 特別にジャンルを超える場合もあった。 しかし、大部分の作曲活動は、 作曲家の能力に合わせて繕われ、 ヴァイオリンが独奏楽器として、 特別な難易度を克服するような方向を目指していた。 他の作曲家の作品が、 多くアレンジされたことも特筆できる。 イタリア・オペラからの主題を利用するのを パガニーニは好んだが、そうした中に、 ロッシーニの『タンクレーディ』の、 『何と多くの悲しみ』の主題による 変奏曲からなる『苦しみ』作品13がある。」 私は、この作品の成立の物語などを期待していたが、 やはり、この手のCD解説から、 それを求めるのは無茶だったということか。 しかし、この手の企画は、もっぱら、 演奏家の技巧に酔いしれる事を目指しているだろうから、 永遠に、パガニーニや、サラサーテなどの生涯が、 身近になることはならないような気がする。 このCDの解説は、この後、 サラサーテやクライスラー、 さらにヴィエニャフスキらが、 民族音楽をもとにローカル・カラーを打ち出した事、 チャイコフスキーのものも同様に、 旅で生まれた小品であることを記述。 最後に、ブロッホとメシアンが、 20世紀の作曲家であることに触れている。 このあたりになると、 ヴィルトゥオーゾヴァイオリニストの作品、 という話からずれて来るのは、 やむを得ないのだろうか。 さて、肝心の、パガニーニ作曲、 「こんな胸騒ぎが」による変奏曲であるが、 Track2.に入っているが、 いきなり始まる序奏のピアノの絢爛たる雰囲気や、 続いて高音で歌われるなだらかなメロディが、 ロッシーニの作品とかなり違うことに驚く。 この明るく澄みきったメロディは、 ピアノの簡素な伴奏で歌い継がれるが、 これは至福の時間である。 急に、暗雲が垂れ込めるようになって、 風雲急を告げると、 あの懐かしいロッシーニの音楽が現れる。 これは、まず、快速なテンポで畳みかけられ、 次に、リズムが強調され、装飾音も増し、 強奏されてカプリースみたいに、 重音やスタッカートなどが駆使されて、 名技性を増して興奮していく。 なだらかな部分では、 異常な高音域が駆使されるが、 こうした難所難所を、 ごく普通に聴かせて行き、 かつ、凝集力を感じさせるところが、 ヴェンゲーロフのすごいところであろう。 ヴァイオリン協奏曲のような音の跳躍など、 アクロバティックな表現を絡めつつ、 名残惜しいような音楽になって行く。 最後には、煌びやかなピッツィカートを絡めた、 力強い部分が出て、音楽は勢いを増して、 テンションを高めた後、 だんだんだんだんとアタックを繰り返して終わる。 これは、ロッシーニの音楽が、 一瞬だけ出て来るパガニーニの大奇想曲、 といった感じの音楽である。 リトアニア生まれのイスラエルのピアニスト、 ゴランの美しくシャープなピアノも聴きものである。 さて、前回、書ききれなかった、 ゼッダ指揮のオペラ「タンクレーディ」(ナクソス盤) の第2幕も、ここで、ざっと続きを紹介しておこう。 CD1のTrack17. ここからが、タンクレーディの第2幕: レチタティーボで、 「アルジーリオの居城のバルコニー・シーンから、 第2幕の最初のシーンは始まる。 そこには書き物机と、豪華な装飾の椅子がある。 オルバッツァーノは、アメナイーデが彼を軽視し、 裏切ったことに腹を立てている。 イザウラは、父親に動かされている、 アメナイーデの運命に同情し、 騎士たちにも二つの感情が交錯している。 イザウラは、アルジーリオに、 アメナイーデが実の娘であることを思い出させるが、 彼は、アメナイーデを勘当する。」 ここでは、オルバッツァーノ役のオルセンと、 イザウラ役のディ・ミッコの会話が中心となり、 裏切りを見たか?といった緊迫した状況。 Track18.レチタティーボ。 不安なオーケストラの効果が卓抜である。 「アルジーリオは、出来事に苦悩する。」 Track19.アリア。じゃじゃーんと、 音楽が気分を盛り上げ、この複雑な状況を、 打開しようとするアルジーリオが声を上げる。 「ある者は慈悲の嘆願をし、 あるものは彼の愛国心に訴える中、 アルジーリオは、しぶしぶ、 オルバッツァーノの要求を呑み、 アメナイーデの死刑を宣告する。」 アルジーリオ役のオルセンの声は、 いささか威厳に欠けるが、悩める様子をよく表し、 最後には、少し細く危なっかしいが、 十分に輝かしい声を聴かせている。 この部分では、合唱とのブレンド感も美しい。 ファンファーレが鳴り響き、オーケストラも、 裏切り者の娘を、自ら罰しなければならない、 悩ましい父親の状況をサポートして、 魅力的な音楽を奏でる。 以下、CD2となる。 CD2. Track1.レチタティーボ。 「アルジーリオと他の人たちが立ち去った後、 イザウラとオルバッツァーノが残る。 彼女は、彼の残忍さを責める。」 ディ・ミッコの声は、メゾなので、威厳がある。 Track2.アリア。 「オルバッツァーノが去ると、 イザウラはアメナイーデのために、 神の助けを求める。」 クラリネット助奏付きのアリアで、 美しいものだが、もう少し、歌手には、 切れ味があってもよいような気もする。 Track3. 「シーンは変わり、門に警備がいる牢獄である。 アメナイーデは繋がれており、 なおも、彼女の不実を疑わない タンクレーディのために死ぬ運命を嘆く。」 スミ・ジョーの歌は、線は細いが、 良く伸び、危なげもなく、 この状況下での嘆きをびしっと決めている。 Track4.カヴァティーナ。 「愛のために死ぬのは、残酷な運命ではない。 いつか、タンクレーディは真実を知るだろう。」 アメナイーデの聴かせどころの、 美しいアリアである。 装飾音も余裕でこなしながら、 スミ・ジョーの声に浸れる部分。 スタンダールも、この部分を、 「第2幕はのっけから心地よいフレーズがある」と書いた。 Track5.レチタティーボ。 騎士たちに護られたオルバッツァーノは、 正義を求め、この時点で、誰が、 アメナイーデを護ろうとするか、 というと、タンクレーディが割って入り、 彼女の罪は認めるが、アメナイーデを救うと言う。 彼は、長手袋をオルバッツァーノの前に投げ、 彼はその挑戦を受ける。 アメナイーデは、無実を主張するが、 タンクレーディは信じない。 彼は、単に、懲らしめに来たのである。」 Track6.レチタティーボ。 「アルジーリオは、この未知の騎士を抱き、 正体を知ろうとする。」 Track7.二重唱。 「アルジーリオは、 娘を擁護しようとする者の正体を知ろうとする。」 このあたりは、非常に心に残るシーンで、 メロディも美しく、声の強力さを味わえる場面でもある。 スタンダールは、「深い憂愁で始まる」と書いた。 「トランペットが鳴り、タンクレーディは戦いにのぞみ、 アルジーリオは祝福を与える。」 意気高揚とした中、ポドゥレスの野太い声を味わえる。 スタンダールも、 「いかにも中世にふさわしい感動的な熱狂」と書いた。 「きわめて巧妙な」トランペットに関しても、 「巨匠の芸」と絶賛している。 しかも、タンクレーディが剣を抜く瞬間のメロディを、 「高貴・真実味・斬新さは非の打ち所がない」とある。 Track8.レチタティーボ。 「イザウラから状況が変わった事を知ったアメナイーデは、 守護者に対する神の加護を祈り、 タンクレーディが戻って、無実を知ることを求める。」 Track9.アリア。 この合唱付きアリアもその感情の起伏と、 素晴らしく散りばめられた装飾ゆえに聞き所である。 「アメナイーデは助けを乞い、 タンクレーディ勝利のニュースが来て、 アメナイーデと支持者は喜ぶ。」 Track10.合唱曲。 「広場に街の人々が集まり、兵士や騎士が行進してくる。 人々に付き添われ、タンクレーディは戦闘馬車に乗り、 トロフィーのように、オルバッツァーノの武具を見せる。 人々は歓喜する。」 Track11.「タンクレーディは勝利に酔いつつも、 シラクーザを離れ、どこか異郷で死ぬと決意する。」 Track12.レチタティーボ。 「アメナイーデは彼に近づくが、彼はなおもその誠実さを疑い、 不実だと信じている。」 以上は、特に声の見せ場がない緊迫したシーンだが、 以下に、強烈な見せ場が来る。 Track13.デュエット。 「タンクレーディは彼女の言葉を聞こうとせず、 それなら殺してと、彼女は説得を試みる。」 別れの二重唱である。切実な感情が美しく歌われる。 コーダでは、激しい感情が炸裂し、 これまた素晴らしいシーンだ。 「彼等が去るとき、タンクレーディはロッジェーロに来るなという。」 Track14.レチタティーボ。 「ロッジェーロはボスから離れられず、 しかも、イザウラから、アメナイーデの無実は、 証明できると聞かされ、タンクレーディに希望があると知る。」 Track15.脇役に終始していたロッジェーロのアリア。 レンディという人が上品に歌っている。 「ロッジェーロは、アメナイーデが無実なら、 タンクレーディが安らかに暮らし、 愛の松明が再び輝くと考えて喜ぶ。」 Track16.「渓谷とアレズラの泉の滝が見える、 山嶺のシーン。遠方にエトナ山が見え、太陽は西に傾き、 海を照らしている。洞窟があって、その前で、 タンクレーディは、ある人が忘れられない悲しい運命を嘆く。」 ここも、ポドゥレスの暗めながら強い声が、効果を発揮している。 Track17.合唱。 「シラクーザの騎士たちが、 ソラミールに対抗する闘志だとしてタンクレーディを探す。」 この前聴いた、ロベルト・アバドの版では、 ハッピーエンド版は、この合唱が敵軍の合唱だとされていた。 Track18.レチタティーボ。 「アルジーリオとアメナイーデ、騎士や兵士らが、 その正体をアメナイーデが暴いた、その英雄を探し出す。 タンクレーディはしかし、アメナイーデの無実が信じられず、 シラクーザのために戦って死ぬことを求める。」 Track19.ロンド。 「タンクレーディは戦いの中で死ぬという。 そして戦いに駆り立てられる。」 ここでも、ポドゥレスの宿命を感じさせる音色に惹かれる。 主役の最後の聴かせどころの7分近い大曲である。 Track20.レチタティーボ。 「イザウラとアメナイーデは戦いの行方を待つ。 勝利の声が上がり、アルジーリオは、 ソラミールを倒した、タンクレーディを連れ帰る。 ソラミールは、アメナイーデの無実を保証していた。」 この2分の間に、都合良く、すべて解決してしまう。 アメナイーデが悩んでいるのは30秒程度だ。 こりゃ不自然だと考え、ロッシーニが、 フェラーラ版を書きたくなったのも分からないでもない。 Track21.第2幕フィナーレ。 「恋人たちは、再び結ばれ、アルジーリオとアメナイーデは、 喜びを表現し、タンクレーディと分かちあう。 そして、イザウラとも。彼等は大団円を言祝ぐ。」 そうはいっても、このフィナーレは簡潔に、 喜ばしさを表現していて楽しいものだ。 得られた事:「同時代者であったスタンダールらは、ロッシーニの『タンクレーディ』を、『完璧な、純粋な音楽』として捉え、パガニーニもそれにあやかった音楽を書いている。」 「ゼッダ指揮の『タンクレーディ』はハッピーエンド版ながら、タンクレーディを探す合唱は、サラセン人ではなくシラクーザの人々になっている。」 |
個人的経験:ロッシーニの「タンクレーディ」は、 ややこしいことに、 2種類の結末を持つことで有名で、 両方の版を収録したCDもある。 しかし、多くの場合は、 20世紀の後半になってから 発見されたフェラーラ版による 悲劇的結末の録音が多いようである。 やはり、ヴォルテールの原作に、 近い方が自然であろうという判断か。 音楽之友社から出ている 河合秀朋著のONブックス、 「オペラ・アリアの名曲名演奏」(1995)では、 このオペラのためにも、 一章を設けた貴重な入門書であるが、 「ロッシーニは何度も改訂、 三八種の版があるといわれ、 タンクレディが死ぬ悲劇版もある。」 と書いていて、 むしろ、ハッピーエンド版が普通でしょ、 という書きぶりである。 実際、悲劇で終わるフェラーラ版は、 失敗作とみなされて、 歴史的には、いったん姿を消していたわけで、 ハッピーエンド版がそもそもオリジナルなのである。 というわけかどうか分からないが、 この「悲劇版」全盛の時代に、 すかっと、「ハッピーエンド版」を聴かせるのが、 スペシャリスト、アルベルト・ゼッダ指揮による、 1994年録音のNAXOS盤である。 しかし、今回のこのCD、 この混乱した版の状況に、 拍車をかけるのを狙ったかのように、 表紙デザインが意味不明である。 「ロッシーニの『タンクレーディ』のためのスケッチ」 と題されており、 1952年にBruno Cagliという人が描いたようだ。 不気味な黒ずくめの人物が、 剣を持ったギリシャ風の戦士と握手しているが、 スケッチと言われるだけあって、 全てが不明瞭である。 何とはなしに、不気味な、 不吉なイメージは伝わって来る。 「悲劇版」にこそふさわしいようなデザインである。 が、1952年ということであれば、 ハッピーエンディング想定の絵画だということだ。 (悲劇版は、1974年まで発見されなかったようなので。) ということで、表紙は不気味だが、 内容はハッピーエンドという、 矛盾した様相を呈した商品となっている。 いくつかの舞台収録DVDを見たので、 この絵画が表しているのは、 おそらく、タンクレーディが、 恋人アメナイーデの父親アルジーリオに対し、 サラセン軍打倒に手を貸そうと、 歩み寄ったシーンではないかと類推できる。 イル・ド・フランスのポワシー劇場における収録とされ、 コレギウム・インストゥルメンターレ・ブルジェンセ という聴いた事のない団体による演奏である。 ただし、帯には、 「ナクソスのオペラ録音でも最高の成果と絶賛される名演」 とあり、アメナイーデには、 人気の韓国の歌手、スミ・ジョーが起用されている。 また、表紙にもなったアルジーリオには、 アメリカのスタンフォード・オルセン、 タンクレーディには、 ポーランドからエヴァ・ポドゥレスが当てられている。 この人たちを束ねた指揮者ゼッダは、 そもそも、フェラーラ版が発見された時、 これぞ、幻のフェラーラ版とお墨付きを与えた、 ロッシーニの専門家なのである。 それでも、ハッピーエンド版を選んだ。 嬉しい事に、このCD、 安いナクソスの流通価格にもかかわらず、 解説がしっかりしていて、 「この録音の際、ロッシーニの音楽の本質の分析と、 『タンクレーディ』のようなオペラの解釈について、 アルベルト・ゼッダに行ったインタビュー」 として、 この指揮者の言葉も読むことが出来る。 さすが、スペシャリスト。 一言、言わずには居られなかったものと見える。 「ロッシーニの古典性: 芸術の現実的なコンセプトのもとに作られた、 ロマンティックなオペラとは違って、 歴史的や物語の真実らしさに関しては欠落があり、 ロマン派にとって大切な心理的な細部や、内省を嫌った、 ロッシーニの音楽は感覚の理想化に偏りがちである。 本質的で逸話風でない主人公を、 情念から解き放つべく、 ロッシーニは、詩人が単語を操るように、音符を操り、 彼等の直接的な感覚の後ろにある真実に到ろうとする。 ベッリーニやヴェルディのような ロマン派の作曲家が与えたメロディの優位性は、 ロッシーニにおいてはない。 彼の音楽的語法はシンプルで、 偉大な内省的なメロディも、 主題の長大な展開もない。」 味わい深い示唆である。 メロディよりも重視すべき「真実」があった、 とは、驚嘆すべき論旨である。 「ロッシーニのフレーズは、 非常に短いメロディのいくつかの小節からなる、 マイクロ・セルから組み立てられており、 しばしば、キャラクターを引き立て、 例えば、『セビリャの理髪師』の、 中傷のアリアのように、同じような動きで、 何度も繰り返され、ほとんど頭から離れなくなる。 こうしたリズムの繰り返しは、 単なる偶然ではまったくなく、 非常に厳密な計算に基づいている。 こうした形式的な組み立て、 短いメロディの断片、繰り返し、 単純で力強いリズム、均衡の取れた構成、 極めて単純な和声、主音と属音の交錯が、 ロッシーニを形式的には古典的な作曲家としており、 同時代者からも、彼はそう思われていた。」 「ロッシーニにはメロディの優位性はない」と、 談じているあたり痛快であったが、 マイクロセルの集合体という考え方も、 非常にストレートに私には響く。 これまで、私は、ロッシーニには、 うっとりするようなメロディはなく、 それが、彼の音楽を難しくしていると思っていた。 私も、実は、代表作「セビリャの理髪師」などのアリアを、 単独で楽しんだことはなかったのである。 しかし、初期の短いファルサから親しんで来て、 ようやく、彼の語法に慣れ、 そうした要素とは別の所に、 彼の音楽の強烈な魅力があることを、 学ばされることとなった。 まだまだ、ゼッダの解説は続く。 「ロッシーニの音楽のに二律背反性: 同様の理由から、ロッシーニの音楽は、 一般に鑑賞しやすく感じられるが、 この第一段階の鑑賞法は、 彼のドラマチックなオペラでは十分ではない。 これらの作品は、音符そのものは表現を生まず、 『トラヴィアータ』や 『蝶々夫人』のようなオペラとは異なり、 メッセージは隠されたものになっている。 一般にロッシーニにおいては、 同じ作品が、全く反対の深い意味を持っていたりする。」 こりゃまた、かなり難しいところまで書いている。 確かに、例として上げられたものはすべて、 感傷的で、そこで語られている情念が全てのような作品だ。 そこからすると、「試金石」にしても、 初期のファルサ群にしても、 何か、人間の営みの虚しさみたいな、 文明批判があるとも思える。 「解釈者の自由と責任: こうした条件から、 もっと現実的な作品においてでなくとも、 どうすれば同様に、 真実に到ることが出来るであろうか。 彼は、事実、演奏者と聴衆とさえの、 能動的な協力関係を求める。 その言葉や内容以上に、 一般的な感情の雰囲気である 『アフェット(魂の揺さぶり)』が、 ロッシーニのアリアを特徴付けている。 このコンセプトは、バロックの伝統に遡り、 驚異、驚愕、驚嘆の美学から生じたものである。 ロッシーニの声楽の書法は、 並外れた声楽家の技巧に依存しており、 全てが『アフェット』を目指している。」 とにかく、魂が揺さぶられること、 と訳すと、トラヴィアータや蝶々夫人の世界になる。 ゼッダは、別の事を言いたかったはずで、 行間から妄想するしかない。 「このような理由から、ロッシーニは、 繰り返しのパッセージにおいて、 音楽表現をモディファイすることを、 演奏者の自由に任せている。 導入のカデンツァや変奏において、 彼は歌手にドラマティックな状況に応じた、 表現力を持ち込むことを認め、 その音域や能力の最大到達点で、 その声を駆使できるようにしている。」 以上がゼッダの言葉であろう。 アフェットゥオーソという音楽記号があるが、 「愛情をこめて」と訳されるが、 「驚愕」とか「驚異」とあるから、 もっと、ぶるぶるしなければなるまい。 それなら、ちょっと分かるかもしれない。 この記事はインタビューとあったが、 最後に、こんな難解な一言が添えられている。 「まさにこの点で、 正確な特徴に対し創造的研究が求められ、 タンクレディの今回のバージョンで、 アルベルト・ゼッタが実践した、 カデンツァや変奏は、 こうした現代的な実践の精神に寄っている。」 ということで、ゼッダが、 何故に、ハッピーエンド版を選んだかは書かれていない。 (ハッピーエンド版だと、CD2枚で収まるから、 とかではないだろうな。 CD1が75分、CD2が72分で、計150分に満たない。 悲劇版では、160分以上かかったはずだ。) が、先ほどの解説を素直に解釈すると、 ロッシーニにおいては、 聴衆と心がぶるぶるするのが共有できればいいので、 リアリズムは二の次である、という解釈にて、 この明解な方の版を選んだと考えることも可能だ。 このような文章の先入観からか、 このCDの魅力は、 ゼッダの骨太の音楽作りにあることが痛感され、 歌手たちもそのコンセプトによく従っていると思う。 さて、このナクソスのCDにも、 「タンクレーディ」の版のことは、 下記のように簡単に解説されている。 「1760年のヴォルテールの悲劇をもとにした、 ロッシーニの『タンクレーディ』は、 1813年2月6日、 ヴェネチアのフェニーチェ劇場で初演されたが、 タンクレーディが生き残って、アメナイーデと結ばれる、 というバージョンによるものだった。 同じ年の四旬節、タンクレーディの第2版が上演されたが、 この時は、ヴォルテールのオリジナルの悲劇的結末に変更されていた。 ミラノでの新しい劇場での1813年の上演でもさらに修正が加えられた。 今回のものはオリジナルのハッピーエンドである。」 かなりあっさりしたものである。 カロリーネ・ポリカーペ女史が書いた解説を読んでみよう。 「タンクレーディとロッシーニの音楽: ロッシーニのコミック・オペラの成功は、 彼のシリアスなオペラの作曲家としての重要さを、 追い払ってしまった。 良く知られた大成功の後、 作曲家の生前から、この作品はたちまち忘れ去られた。 特にロマン派オペラの誕生など、 音楽芸術に重大な変化が起こった時期にあって、 『泥棒かささぎ』が、彼の晩年に再演された時、 当時の批評家は、 『40年もたって、昔の愛人に会ったみたいだ』、 と表現した。 このことは、ロッシーニの作曲スタイルから、 いかに時代の精神が変化したかを示しており、 何故、彼のシリアスなオペラが、 事実上、レパートリーから、 消え去ったかの理由がわかる。 スタンダールがロッシーニの傑作と考えた、 『タンクレーディ』においては、 イタリアオペラにおいて生じていた問題に対して、 作曲家は新しい解決を見いだしている。 19世紀の最初の何年かは、実際、 新しい性格やドラマ的状況を導くリブレットに、 新しい主題を入れ込むことは、 すでに存在したオペラ・セリアの伝統に、 別の表現手段や劇的なアクションを要求した。 『タンクレーディ』には、 それゆえ、当時の伝統からは例外的な、 フェラーラのために用意された、 悲劇的終曲だけでなくとも、 叙情的表現と劇的アクションの総合を実現する、 新様式に新手法が見られる。 ロッシーニはここに達するために、 『タンクレーディ』のなお伝統的な形式 (レチタティーボが挟まる並列ナンバー)にもかかわらず、 瞑想的なパッセージとより劇的な部分を交錯させる 巧みなアリアの挿入や、 レチタティーボに独特の処理、 オーケストラの表現力豊かな活用を行った。」 このような特徴は、何となく分かる。 明確に対比された楽想の交錯や、 詩的なオーケストラは、随所に見受けられるものだ。 今回のCDの聴きものは、 ゼッダの指揮もさることながら、 タンクレーディ役の ポドゥレスの魅力に負うところが大きいと思う。 解説を見ると、ワルシャワに生まれ、 1982年から国際キャリアを歩み、 チャイコフスキー・コンクールなどで賞を取っているらしい。 ヴァレンティーニ・テッラーニや、 マリリン・ホーンの伝統を受け継ぎ、 輝かしいトップCに到るコントラルトの声だとある。 1993年には、スカラ座で、このタンクレーディを歌って、 成功したとあるから、かなり自信と気迫に満ちた、 声を響かせて、まことに溜飲が下がる。 また、最後に戦場に向かう、 「なぜ平安を乱す」(CD2のTrack19)なども、 圧巻の名唱である。 「こうした処置は、ソロのアリアのみならず、 二重唱、第1幕最後の重要なアンサンブルなどをも、 特色づけている。 『タンクレーディ』においてロッシーニは、 ドラマ性、叙情性、音楽的要素の完璧な熟達を見せている。」 第1幕のフィナーレなどで、 この素晴らしいアンサンブルの効果が、 作品としては、我々の度肝を抜く。 アンサンブルとなると、ポドゥレスのたくましい声に対し、 スミ・ジョーやスタンフォード・オルセンの声は、 透明度が高く、やや異質な感じがしないでもない。 例えば、第1幕のフィナーレなど、 やはりアメナイーデの半狂乱が重要で、 聴衆をアフェットさせるだけの魂の底からの迸りが欲しい。 が、このような小さな点を、 ことさら強調する必要があるかは疑問で、 よどみなく流れる音楽の力に酔いしれ、 最後の第2幕フィナーレを歌い出す時の、 スミ・ジョーの晴れやかで澄んだ、輝かしい声を聴くと、 かなりの不満は吹き飛んでしまう。 あらすじ: 1005年、シラクサで起こった事。 CD1. Track1.序曲。 正統的で充実した響き。単色系で色彩感に欠けるが、 ストレートな表現で良い。 Track2.動入曲、「平和、名誉、忠誠、愛」。 「議会のリーダーであるアルジーリオの宮殿の群衆。 彼と一緒にイザウラ、彼女の従者たち、騎士たちがいる。 二人の従者が、白いスカーフの入った銀の杯を運んでくる。 他の騎士たちが到着し、お互いに赤青のスカーフを、 白のスカーフに交換する。」 これは、赤い派閥と青い派閥があるからと思われ、 白に変えて和睦を象徴しているのだろう。 これまで、二つのDVDを見たが、このように、 スカーフを交換するような演出じは見た事がない。 「騎士たちは、アルジーリオとオルバッツァーノという リーダーの下に集まった派閥間の抗争の終結を祝うことになった。 二つの派閥は統一されたのである。 アルジーリオは、二つの派閥が和解してシラクサは平和だと宣言する。」 合唱に、アメナイーデの友人のイザウラが絡むが、 ここでは、アンナ・マリア・ディ・ミッコが歌っている。 アルジーリオを歌う、オルセンと共に、解説では、 わざわざ、若い歌手だと書かれている。 検索してみると、いずれも舞台映えしそうな二人だ。 その後、頭目のアルジーリオや、 オルバッツァーノが声を合わせて行くが、 後者はスパノーリで、ロッシーニを得意としているらしく、 声量はないが安定した感じ。 速いテンポで、どんどん進んで行く感じが良い。 Track3.レチタティーボ、 「さあ、ところで、勇敢な騎士たちよ。」 アルジーリオは、ムーア討伐のリーダーに、 オルバッツァーノを指名する。 オルバッツァーノはしかし、 特に、追放されたタンクレーディなど、 内部からの裏切りが出ることを警告し、 イザウラはうろたえる。 アルジーリオは娘のアメナイーデを呼ぶ。」 Track4.合唱とカヴァティーナ、 「晴れ上がったこの佳き日に」。 「アメナイーデは、調和と愛の勝利の歌と共に、 従者と共に現れる。 彼女は、そこに喜びを加え、彼女のもとに、 密かに呼び寄せておいた愛するタンクレーディが、 いないことに一人、不安を感じる。」 これまた、快適なテンポによって、 合唱とオーケストラが朗らかな響きを聴かせる。 続いて、スミ・ジョーの登場シーンであるが、 澄んだ声が美しいが、押しつけがましさも欲しい。 Track5.レチタティーボ、 「おお娘よ、もう既に決まったことだ」。 「アルジーリオは、アメナイーデに、 オルバッツァーノと結婚するよう告げる。 オルバッツァーノは、彼女に愛を告げ、 結婚の約束を父親とした事を告げる。 彼は、すぐに婚儀を迫るが、 彼女は1日待って欲しいと言う。 皆がいなくなると、イザウラは一人、 すでにタンクレーディと誓った、 アメナイーデの境遇を嘆く。 『不幸なアメナイーデよ、 何とあなたにとって恐ろしい日でしょう。』」 Track6.レチタティーボとカヴァティーナ。 「おお祖国よ、大いなる不安と苦しみの後で」。 いよいよ、主人公の登場シーン。 オーケストラの繊細な情景描写も出色であるし、 後半は、このオペラで、最も有名なアリアが出る。 「シーンは変わって、宮殿の心地よい庭園。 庭は海岸と海に面し、船が近づいて来る。 ロッジェーロがまず下船し、 タンクレーディと手下たちも続く。 彼はまだアメナイーデの手紙を受け取っていなかったが、 生まれ育った街を外敵から守り、 愛するアメナイーデと再会することを決めている。」 ポドゥレスの登場であるが、 最初は、祖国への厳粛な挨拶なので、 彼女の底力は秘められている。 「彼は祖国に挨拶し、アメナイーデの事を考え、 彼の行いで彼女が苦しんでいることを詫び、 ただ、再会を願う。」 オーケストラの合いの手が入るあたりから、 ヴォルテージがアップして行き、 有名なアリアへと続く。 この人の声には、何か濁ったところがあって、 それが、妙な迫力を感じさせ、 装飾音が入ると、この魅力が倍増する。 Track7.レチタティーボ。 「ここがアメナイーデの住んでいる館だ。」 「彼は忠臣ロッジェーロにメッセージを持たせ、 アメナイーデのもとに走らせ、 不安の中でロッジェーロを待つ間、 見知らぬ戦士が都市の警備に遣わされて来たことを、 騎士たちに告げる。 タンクレーディが去って、まだ、声が聞こえる距離にいる時、 アルジーリオとアメナイーデが庭園にやって来る。 アルジーリオは、手勢の騎士たちに、 友人達を正午からの娘の婚礼に招くことを命じ、 彼女には服従を求める。 騎士たちが去ると、アメナイーデは、 婚礼を延ばして欲しいと願い出るが、 しかし、アルジーリオは、シラクサは危機に瀕していると告げる。 彼女に求婚している敵の指導者、ゾラミールが、 都市を包囲しており、タンクレーディが帰還したという噂から、 復讐を狙っている。 議会はいかなる反逆者も死をもって罰すると決め、 ムーア軍に対してシラクサ軍を率いる オルバッツァーノと彼女は結婚しなければならない。」 Track8.レチタティーボとアリア。 「アルジーリオはアメナイーデに、 議会はいかなる反逆者にも死を宣告すると告げ、」 Track9.「彼は、彼女に、 自分の娘であることを思い出させる。」 ここでは、オルセンの歌う高らかな宣言が聞かれるべきだが、 統治者の厳格さよりも、リリカルな感じがするのが惜しい。 このあたりの音楽の冴えた感じは、 しかし、ロッシーニの青春の輝きと言うべきか。 Track10.「何て早まったことを!」。 「アルジーリオは出て行き、 アメナイーデは、差し迫った危機から、 タンクレーディを呼んだことを後悔する。 タンクレーディがその時現れ、彼女は狼狽する。」 せっかくの恋人同士のひとときを、 運命が狂わせて行く部分。 Track11.レチタティーボと二重唱。 「ああ、最悪の時を選んだのね。」 「アメナイーデは、タンクレーディに逃げるよう告げ、 彼の愛の言葉に冷たく接する。」 Track12.「あなたを取り巻くこの大気は」。 「まさに彼が息をするごとに危険は迫る。 彼等は、別れの必要を感じながら、お互いの状況を嘆く。」 二重唱であるが、スミ・ジョーの軽快な声と、 ポドゥレスの声のアンサンブルの対比を楽しむことが出来る。 ロッシーニの音楽もたいへん美しく、 恋人たちのアフェットな情感を盛り上げている。 スミ・ジョーの可憐な声が、これに貢献していることは確かで、 ポドゥレスもここでは脇役になりがちで分が悪い。 Track13.合唱。「愛よ降りて来い、喜びよ降りて来い」。 ファンファーレを伴う行進曲調の楽しい音楽である。 「続くシーンは、市の広場で、 ゴチックの壮麗なカテドラルに続く、 城壁が見える。古代のモニュメントが飾られ、 婚礼を見ようと人々が集まっている。 貴族たちは愛と喜びを述べ、 兵士と騎士が入場、位置に付く。」 Track14.レチタティーボ。 「友よ、騎士たちよ、教会へ行こう」。 「アルジーリオは参加者に挨拶し、 この婚礼がシラクーザの争いを和解させると述べる。 アメナイーデが、オルバッツァーノと結婚して裏切ったと思い、 変装したタンクレーディは、 忠誠をアルジーリオに誓い、敬意を表する。 アメナイーデは、命と引き替えにでも反抗し、 いよいよ、父の言いつけを拒む。 タンクレーディは、それを聴いて喜ぶが、 入って来たオルバッツァーノは、 アメナイーデの不忠を聴き、証拠を持って怒り狂う。」 Track15.「誰から?何故。」 「オルバッツァーノはアメナイーデが、 タンクレーディに書いた手紙が手に入ったのを見せ、 これは、秘密の恋人ソラミールを、 市中に引き入れ市を占領させようと、 彼に送ったものと考え、この背信は死に値するという。 アルジーリオは手紙を読み、 彼とタンクレーディは失望を口にする。」 Track16. 第1のフィナーレ。「神よ、何ということを。」 「アメナイーデは偽りの告発を嘆く。 そこにいた人々は恐怖をもって、この暴露に反応する。 アメナイーデは父に向かうが勘当され、 タンクレーディに向かうが、ここでも拒絶される。 オルバッツァーノは仕返しをする。 イザウラ以外はすべて手のひらを返す。 アメナイーデは、すべてが嘆きに変わる中、 牢獄へと引かれる。」 これまでのDVDで、ここで、アメナイーデが、 牢獄に入れられたものはなかった。 この部分は、このオペラの最大の見せ場と言ってもよい。 アメナイーデを中心に、 3人の男性(タンクレーディは女性が担当するが)と、 イザウラのアンサンブルが、合唱を背景に、 ぞっとするような状況を盛り上げて行く。 アメナイーデの懇願のテーマが美しく、 輝かしい一条の光となって、 この混乱の音楽を照らして行くが、 ことごとく粉砕されてしまう。 アメナイーデが、次々に嘆願をするので、 ここでは、スミ・ジョーの声が、 澄んで冴えているのが効果を上げている。 が、最初に書いたように、 音楽作りがストレートで、 あまり、陰惨な感じがしない。 これで第1幕は終わり。 第2幕以下を書くスペースがなくなってしまった。 得られた事:「ロッシーニは、アリアにメロディよりも重要な事があると考えた。それは、『魂が揺さぶられる』ような真実を目指す事であった。」 |
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